FUTURE〜文筆家・勝沼紳一と企画者草川一が当て所なく繰り広げる四方山話〜

次の世代に伝承されていない日本文化 その弐             2007年5月1日

前回の、より続く。
 
プロがいなくなっちまった時代、なのかなあ。
プロが必要でなくなっちゃった、とも言えない? 何でもかんでも大事なことや厄介なことを、すべてIT制御にしているうちに、プロフェッショナルなのはマシンばかりでさ、人間がやることは軒並み、素人でコト足れりとなってしまった弊害だと思うけど。
俺たちがガキの時分は、クリエイティブな仕事の領域に、生半可な覚悟で入って行こうなんて、思えないような「空気」があったじゃない? 頭の出来も心の出来も体の出来も、瞬時に、先輩たちに見透かされちゃうから、ガキの感覚が許される隙間もなかった。
TVドラマでいえば、倉本聡や山田太一クラスのプロが、綺羅星のごとく、番組表に居並んでいたような時代だよね。
小学生の頃に、倉本さんの「6羽のカモメ」があり、高校の時に「たとえば、愛」って作品があった。大原麗子主演でね、ラジオ局のDJの役で。
あー、あったね、そういうの。
「拝啓、父上様」を見ていて、あらためて感心したのは、倉本さんって、昔っから喫茶店のシーンの「人物の出し入れ」が、うめぇなぁと思ってね。ありゃ、あのオッサンの専売特許だね(笑)。「たとえば、愛」の中でね、大原麗子が、生放送中に大ポカをやらかし、現場ディレクターの荒木一郎が、責任取りたくねぇから逃げ回ってる、みたいなシーンがあってさ。局のそばの喫茶店の扉を、荒木が恐る恐る開けて、小声でマスターに、「(大原が)来てる? いない?」と、ホント小心者丸出しの態で、背中を丸めて、ビクつきながら辺りを窺うシーンなんて、もう、そのシーンを繰り返し見返すだけで、何杯も酒がお代わり出来るくらいに巧い!! 荒木の演技が巧いだけかな、と思って、当時の倉本さんの脚本集を取り寄せて読んでみると、もうシナリオの書き方からして、絶妙なのに気付いたよ。
倉本聡は、ある意味、座付き作家だからね。主演の役者に「あて書き」するんでしょ。
そうそう。荒木なら荒木に「そう演技させるしかない」ト書きと台詞の書き方なんだよなぁ。さりげない日本語を使い、さりげなく、ある「演技の方向」に追い込んでいく手腕……。これが出来る脚本家って、じつはなかなかいないでしょ? とくに若手じゃ。台詞からして下手糞だもん(笑)。
そういう見方からすると、三谷(幸喜)さんも巧いけどね。でも、あの人は、やっぱり舞台の戯曲の人だよね。映画でもドラマでもなく。サービス精神が舞台向きだよ。
俺が大学を出て、フリーライターとして、原稿料の安いエロ本で書き始めた頃、どこかで脚本の世界を究めたくて、ベテラン作家の文体模写をやりまくったんだけど……。すぐ気付いたね。倉本聡のホン(脚本)は、いくら真似ても「自分のモノ」にならないって。ありゃ一つの「名人芸」でね、あの人だからOKなわけで、あれにハマると、自分のホンが書けなくなっちゃう。何を書いても下手糞な気がしちゃって(笑)。そこいくと、山田太一の作品は、生意気な言い方すりゃ、真似が出来そうな気になれる。大いなる勘違いだけどさ。でも、いろんな要素が、ホンから盗めちゃう……。
シナリオ自体がオーソドックスな描き方だからかな? 倉本聡に比べると。
オーソドックスという意味じゃ、かなりお手本にさせてもらったのは、市川森一だよね。今、俺が所属している放送作家協会の会長だから、呼び捨ては失敬だけど(笑)。