劇評117 

三田和代と鳳蘭の絶品演技を中軸に、生きることの意味を問う秀作。

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」



2009年5月10日(日)晴れ
シアターコクーン 午後2時開演

作:清水邦夫 演出:蜷川幸雄
出演:鳳蘭、三田和代、真琴つばさ、中川安奈、鞠谷友子、石井愃一、
   磯部勉、山本龍二、   横田栄司/ウエンツ瑛士/古谷一行
 
場 : 特に列に並ぶことなく、スムースに会場に入ることが出来た。ロビーの雰囲気も全体的に落ち着いた感じ。飲み食いする人もあまりいない。劇場内に入ると、舞台前面にマネキンが何対か置かれたディスプレイ・ウィンドウが設えてある。この話の舞台が百貨店であるのを知っているのでそれと分かるが、何も知らない人は、ん?何でショー・ウィンドウと思わせる引っ掛かりになるのかもしれない。
人 : ほぼ満席だが、当日券も売っていました。年配の集団の方が目立ったかな。全体的に年齢高めな中、ウエンツ狙いの中学生くらいの女の子が友達同士で来ている姿が混じる、まあ、老若男女と言えば言えなくもない幅広い年齢層の方々が集います。


  会場が暗転すると舞台上に照明が入り、舞台手前に設えられたディスプレイ・ウィンドウの向こう側に百貨店の大階段が透けて見える。買い物客が行き来しているのが見える。しばらくすると百貨店閉店のアナウンスが流れ、その後百貨店は電気が消され暗くなる。この間約5分。観客は、日常の平穏としたテンションに誘われている。すると、ニナ・ハーゲンの歌が大音量で流れ、宝塚風の男装をした男たちが5人、大階段の上からゆっくりと下りてくる。ニナ・ハーゲンは初演時と変わらないんだあと思いながらも、日常からいきなり非日常へと飛躍したそのインパクトある光景に、しばし見入ってしまう。

 


 後にもこの大階段を使っての群舞シーンは出てくるのだが、蜷川演出は、このシーンの背景に砲弾や機関銃の音を重ねていく。登場人物たちがそれぞれに生きてきたその闘いの残滓とも見て取れるが、蜷川と清水が生きた60年代の闘争の時代もオーバーラップしてくる。


 
 


  「自分たちがやってきたことの検証をしよう」と言う思いがあったと蜷川は語っている。東北の百貨店にかつて存在していた歌劇団を再び甦らせるというストーリーの奥底には、かつて劇団を解散した後、商業演劇の世界へとその場を移した蜷川と座付き作家の清水との、それまでの軌跡やその時の自分たちの立ち位置を確認する意味合いが含まれていた。一種のメタ認知とでも言うべき作用が、そこには施されていたのだ。しかし今回、そんな送り手たちの郷愁に浸ることなく、戯曲が持つ普遍性を炙り出すことに成功したのは、ひとえに役者たちの卓越した技量が貢献していることに相違あるまい。かつてのふたりの思いを軽く凌駕するようなパッションが、舞台から客席に直球で叩き突けられる。


 


  三田和代が絶品である。かつての娘役のマドンナは、30年前の空襲がきっかけで歌劇団が消滅して以来、自分の時間を止めてしまっている女性だ。自閉症とも思えるような、自分の世界の殻の中に閉じこもるその狂気の姿の中に、ふと今のこの現実を誰よりも冷静に見据えてもいるかのような感性が、それこそちょっとした目線や囁きに込められて、その匙加減の絶妙さに舌を巻く。本当なのか、ただ単にフリをしているだけなのかの境界線上を行き来しているのだ。後世に残る名演技とはこういうものを言うのかもしれない。この演技だけを見るだけでもこの作品を観る価値はある。


 
 


  凄いのは三田和代だけではない。かつての男装の相手役を演じるは鳳蘭。もう登場するだけで、その存在感に圧倒されるばかりだ。他を寄せ付けない圧倒的な華やかさは、一朝一夕で身に付けられるものではない。持って産まれた資質に近い性質のものであると思う。声の張り具合、身のこなし、どの部分を取っても、それ以外は有り得ないと思わせるだけの絶対的なものがある。また、三田和代との相乗効果もあったに違いない。このふたりの間には一種の化学反応が起こり、既に、今、この芝居を見ていながらもその演じられた一瞬後からは全てが伝説になっていくかのような、超絶した域の高みへと上り詰めているのだ。





  ウエンツ瑛士はやはり旬のスターの輝きを放っていて、他のどの俳優とも異質の存在感を示していた。舞台と観客の思いをつなぐブリッジのような役割を果たしており、ナチュラルな存在感が、観客の共感を集めていく。鞠谷友子の絶叫の歌いっ振りにもグッと惹かれるものがある。中川安奈は役柄の荷の重さゆえか硬さが残り、真琴つばさは、宝塚スタイルとも言えるような一種のカタに囚われていてその域から脱しない。男優陣はアンサンブルに徹し、それぞれの役どころを、ポイントを押さえて演じていた。

 



  人生を折り返し過去と折り合いをつけた人々は、そこから何を頼りに生きていくべきなのか、と言うテーゼをストレートに突き付けられた。そこで例え死という選択肢を選び華を散らしたとしても、その遺伝子は時を超え連綿と続き、カタチを変えて生き残っていくのだ。自分が何を「謳って」生きていくべきなのかを、真摯に自分に問いかけている自分がそこにはいた。

 



  カーテンコールも華やかだ。お辞儀ひとつ取っても、三田和代と鳳蘭は抜きん出て洗練されている、などと思っていたら、清志郎の「デイドリーム・ビリーバー」が流れるんですよ。舞台の結末ともリンクはするのだが、禁じ手じゃないのこういうの!と思いながらも、んー、ジーンときちゃいました。