劇評123 

じわじわと左脳が刺激されるような、知的興奮に満ち溢れた作品。

「コースト・オブ・ユートピア
        ― ユートピアの岸へ」










2009年9月20日(日)晴れ
シアターコクーン 12時開演

作:トム・ストッパード
翻訳:広田敦郎
演出:蜷川幸雄
出演:阿部寛、勝村正信、石丸幹二、池内博之、
別所哲也、長谷川博己、紺野まひる、京野ことみ、
美波、高橋真唯、佐藤江梨子、水野美紀、栗山千秋、
とよた真帆、大森博史、松尾敏伸、大石継太、
横田栄司、銀粉蝶、毬谷友子、瑳川哲朗、麻美れい
 
場 :  会場に入ると通常コクーンの客席中央通路前部がつぶされ、ステージが設えられている。通常舞台の部分には、ひな壇形式の客席が設けられ、会場上下の固定客席は生きているので、ステージはほぼ四方を客席が囲むことになる。開場時にはその長方形のステージの縁を囲むように会議室用の長テーブルとパイプ椅子が置かれ、そこに出演者が普段着のままそこ此処に座り談笑している。読み合わせ稽古場のような雰囲気である。
人 :  満席。だがちょこっと空いている席がある。チケット取ったのに来れなくなってしまったのでしょうか。チケット代、お高いのに残念なことです。客層は若い方から年配の方までさまざまです。ひとり来場率が高い気がします。まあ、興味のある人しか誘えない演目ですもんね。上演時間は長いし、チケット代は高いし。会場の雰囲気から察するに、よし観てやろうという観客の腰の座った思いが充満している気がします。ひとり立ち見の人がいたが、しんどくないのだろうかと心配してしまいます。


  ステージ上で談笑する私服の役者たちが立ち上がり、長テーブルを畳みながら舞台から去るのと入れ替わるように、テーブルや椅子などが運ばれ衣装を纏った役者が登壇すると、19世紀半ばのロシアへといきなり時空が吹っ飛ぶ幕開きは、蜷川演出の真骨頂だ。現代の観客を一気にステージの世界へと誘う仕掛けで、目は舞台に釘付けになる。


 


  物語は3部構成で、休憩を挟んで10時間20分の大作である。演じる方は勿論のことであるが、観る方にもこういう果敢な挑戦を強いる企画を実現してしまった蜷川幸雄の意気込みに、まずは脱帽する。チケット販売の経緯の状況は知らないが、とにかく客席は満員であったことからも、観客に望まれた企画であったことが分かる。

 
 


 トム・ストッパードが多分に意識して書かれたとは思うが、チェーホフが描くような貴族一家の団欒から、この長尺な物語は幕を開ける。しかしこの後、この家族の原風景とでも言うべき支配者一家の平穏は一切顔を出さず、時代の潮流に巻き込まれる多くの知識人とその家族の話へと物語は展開していく。しかしその家族にはかつてのような規範や道徳は通用しなくなってくる。時代と共に人々もその生き方を手探りで模索し始めるのだ。

 


  冒頭に平和な時代が描かれた故に、知識人たちそれぞれが改革を実行しようと思索しそして悩む、その揺れ動く感情がさざ波のように家族たちへと伝播していく様がくっきりと対比されていく。もはや、壊すべきものと、守るべきものが混在として、渦中の当人たちも分からなくなっている混沌が描かれていく。感情や思想を吐露するごくプライベートなシーンを、時空を入れ替えるなどして緻密に紡ぎ合わせていくことで、人間が生きるということの根源的な意味の領域へと筆致は迫っていく。

 
 


  T部「船出」では、全編を通して物語の核となるゲルツェンやバクーニンなど、知識人たちの若き姿が描かれ、第U部「難破」では、パリへと移住したゲルツェンらは王政打倒の革命に遭遇するが、その革命は権力を取った共和政府の圧制でもろくも挫折する光景を目の当たりにする。また妻の不倫や子どもの死など次々に悲劇が襲ってくる。そして第V部「漂着」では、自著「向こう岸から」のロシア語版を出版し、盟友オガーリョフと新聞「鐘」を発行するなどゲルツェンは慌しく活動を行い、ついにロシアで農奴革命が起きる。しかし、その革命は彼らが目指したものとはほど遠く、ゲルツェンをして「飢えと放浪への解放」と語らせることになる。様々な光景が舞台上で目まぐるしく展開され、その映像的とも言うべきシーンの数々をコラージュのように寄せ合わせて編集されていく。紡ぎ合わされた物語の断面から、その隙間に閉じ込められていた登場人物たちの悲しみが溢れ出てくる。大仰なシーンはないのだが、じっくりと心に染み入ってくるのだ。





  俳優陣も多くの実力派を揃えるが、全編を通して登場するゲルツェン演じる阿部寛の偉丈夫さと体躯が物語全体を牽引する要となっている。勝村政信演じるバクーニンの洒脱は、役に対して正統的な取り組み方をする方の多いこの座組の中において、ひときわ軽妙な味わいを際ださせて大いに目立つ。石丸幹二演じるオガーリョフが、また味わい深い。抑制する苦悩が滲み出る様や、時を経て老齢へと変化していく成熟に安定した実力を見せつけられた。アンサンブルにおける立ち位置をしっかり理解されているところも素晴らしい。麻美れいは各部で別々の役を演じるのだが、そのどの役柄も実に明晰で軸がぶれず、女の秘めたる強靭さをさりげなく見せる力に脱帽した。また瑳川哲朗の存在感は、この長尺な物語に安定感を与えていた。役者は誰もがみな、キラキラとしていた。

 



  12時から始まり、終演が22時20分。もはや体験ですね、この観劇は。半日、旅をした気分です。かつての革命家の生き様を追体験することで、今の自分や社会を捉えるこれまでとは違った視点が、見終わった後に生まれていた。観客に、このままの状態でいいのかという疑問符を抱かせ、現状打破に発破を掛ける仕掛けには成功したと思う。作者、演出家たちの思いに、まんまと引っ掛かった心地良さを引きずりながら、劇場を後にした。身体に直撃する弩級の衝撃というよりも、じわじわと左脳が刺激される知的興奮に満ち溢れた作品であった。