劇評130 

演劇の醍醐味が思い切り味わえるパンクな詩劇。

「血は立ったまま眠っている」






2010年1月23日(土)晴れ
シアターコクーン 18時開演

作:寺山修司
演出:蜷川幸雄
音楽:朝比奈尚行/遠藤ミチロウ
出演:森田剛、窪塚洋介、寺島しのぶ、六平直政、
   三谷昇、遠藤ミチロウ、金守珍、大石継太、
   柄本祐、富岡弘、大橋一輝、江口のりこ、
   茂手木桜子、蘭妖子、丸山智己
 
 
場 :  シアターコクーンの劇場内に入ると、緞帳はなく、何の装置もない素のままの舞台が広がっている。舞台正面奥の駐車場に繋がる大きなドアまで丸見えだ。今回は客席も通常仕様で、この時点では特に何の仕掛けもないように思えるが、この何もない空間自体が演出の一部であることが、芝居が始まると分かることになる。
人 :  観客の9割が20〜30歳代の女性である。森田剛ファンの方なのでしょうかね、やはり。しかし、変にキャピキャピした雰囲気はなく、落ち着いた感じの印象だ。また友人同士で来ている率が高いようだ。会話を楽しみながら、ちょっとワクワクしながら、開演を待っている感じである。


  舞台正面奥のドアが開くと、その向こうは文化村の駐車場になっているのだが、その駐車場から町の人々が幻のように登場すると、インターナショナルの旋律を背景に、舞台で大きく赤い旗を振り回し始める。芝居がスタートした。競馬場の裏に位置する港町という設定故か、白と黒の馬が舞台を駆け抜けると、それまで何ない空間であった舞台には、倉庫や公衆便所や床屋が上下から現れ、舞台上部からは瞬くネオン看板や電線がスルスルと下りてくると、すっかりと裏町の様相へと変貌を遂げる。何もない空間が一気に芝居世界へと飛翔する。蜷川演出ならではの醍醐味だ。

 


 森田剛と窪塚洋介のテロリストが潜む倉庫と、町の人々が集う床屋とが交錯しながら、物語は進んでいく。しかし面白いことに、この両者は最後まで一切接点をもつことがない。明日のために社会を改革しようとする者たちと、悪事を働きながらも逞しく今日を生き抜く人々が照射し合う構造になっているのだ。マクベスではないが、綺麗は汚い、汚いは綺麗、相反するものであっても、人間、所詮は同じ穴のむじなだということか。いい意味で緊張感が貫く劇構造だ。

 
 


 中越司が創り出す、ゴミゴミしたな汚い街並みが美しい。そして服部基の照明がその町並みを叙情的に照らし出すことで、この物語の中にあるピュアな核心を浮き彫りにさせていくことになる。また遠藤ミチロウの弾き語りの歌声が、その空間の隙間をジンワリと埋め、町に生命を吹き込んでいく。生きているそのこと自体が美しいのだ、正しいのだという、人間賛歌にも似た創り手の思いの丈が濃縮されて詰め込まれているようだ。だから、表向きは、テロリストであったりチンピラであったりズベ公であったりするのだが、登場人物たちは皆、実に前向きな姿勢で生きているのだ。その表現が、寺山修司の初戯曲という初々しさと相まって、溌剌としたパンキッシュな若々しさを放出していく。

 


 作品には、寺山修司の詩篇の数々が珠玉のごとく溢れており、その言葉が役者の肉体を通して語られることで、また活き活きと生命力を持って輝き出すこととなる。題名にもなっている、詩篇の一節はこうだ。窪塚洋介演じる灰男が語るのだが、「地下鉄の鉄骨にも一本の電柱にもながれている血がある。ここでは血は立ったまま眠っている」とある。もう、やられちゃいますよね、この言葉には。才能とは、創り出されるのではなく、既にそこにあるものなのですね。

 
 


  森田剛が、弟分の幼いピュアさを抱えながらも、兄貴分を越えたいと願う思いとの狭間の中で葛藤する姿を、実に繊細に演じていて出色である。彼が台詞をうたい上げると、錯綜する幾重もの心境がストレートに観客に届き、心に響いてくるのだ。これ程までに緻密な演技をする俳優だとは知らなかった。窪塚洋介は慕われる兄貴分の度量と魅力を醸し出し、観客を魅了する。独特の台詞廻しは彼の専売特許だが、そのスタイルを超えて伝わる熱い思いに釘付けになる。そのふたりの間に現れる森田剛の姉を演じる寺島しのぶは、微妙なバランスで成り立つふたりの間に割って入り奇妙な三角関係を演じるが、ピュアなふたりの男のハートを受け止めながらも、それぞれの関係性が変わっていく要因ともなる違和感をしっかりと舞台上に刻印し存在感を示していく。他にも、六平直政、三谷昇、遠藤ミチロウ、金守珍など、唯一無二のノイズを抱えた俳優陣による丁々発止が寺山戯曲の下世話な部分をより拡大させ、決して文学の域に留まることなく、ひとりの生活者としてそれぞれ舞台に息づいていて見事である。





  沈殿する今の世の中において、我々は一体何をしなければいけないのかという大きな問いを、この作品に突き付けられたような気がする。何もしないままで生活者として生き延びていくのか、高潔な理想を掲げて生きていくのかは、その人次第。皆どちらにも転じる要素は持っているのだ。行動を起こすか、起こさないかを決定付ける行動要因は、一体何に起因するのであろうか。その核心部分を、自らの中に分け入りながら模索し始めた自分がそこにはいた。ここで放たれた矢は、それぞれの観客の中でそれぞれの化学反応をきっと起こしていることだろう。これぞ、演劇、なのだと思う。