劇評141 

人間の業の強さと儚さをパワフルな筆致で描いた、秀悦で美しい傑作喜悲劇。


「ファウストの悲劇」

 

2010年7月4日(日)晴れ
シアターコクーン 19時開演

作:クリストファー・マーロウ
翻訳:河合祥一郎
演出:蜷川幸男
出演:野村萬斎、勝村政信、長塚圭史、木場勝己、
    白井晃、たかお鷹、横田栄司、斎藤洋介、
    大門伍郎、市川夏江、大林素子、他

場 :  初日であるからなのか、ロビーの雰囲気も何となく賑々しいが、浮き足立った感じではなく、落ち着いた感じではある。会場内に入ると、舞台前面には定式幕下ろされており、客席の其処此処に赤いぼんぼりが吊るされている。客席前方数列は、通常の椅子が取り払われ、背もたれの低いベンチシートになっている。桟敷席の雰囲気を演出したかったのであろうか。シアターコクーン会場内は、歌舞伎公演のような設えになっているのだ。
人 :  満席だが、立ち見の方はいないですね。客の年齢層は総じて高めな感じである。40〜50代の方が中心ではないだろうか。男女比は半々位かな。通好みな役者連中が揃っているので、やはり演劇好きな感じの方も多いです。また、パートナーや友達同士で来られている方が多い気がします

 拍子木の音が鳴り響くと、定式幕の前面に設えてあるせりに乗って口上役の木場勝己がちょんまげ姿で現れ、舞台の幕は切って下ろされる。舞台上ではステージ3方をぐるりと3層の壇が覆っていて、着替えたり、談笑したりする役者が見えている状態だ。これは、真田広之の「ハムレット」で観た光景に近い。舞台の板の下は観客席からも見渡せるようになっており、スタッフ役の役者が舞台機構を動かしたり、次の出番を待つ役者が待機していたりとか、裏方作業が丸見えの演出だ。かつて観た「四谷怪談」と同様な設定だ。演出コンセプトは、歌舞伎一座が「ファウストの悲劇」を演じるという設定であり、シェイクスピアと同時代のクリストファー・マーロウの神学世界を、グッと日本へと引き寄せるこの手法は、蜷川演出ならではの醍醐味だ。

 舞台設定の特異さもステージから目を離せない要因となっているが、悪魔や天使がフライングで宙を舞ったり、勢い良く舞台床から粉塵が巻き上がったり、周囲の楽屋の壁がミラーとなりこれまでと様相を一変させるなど、まるで見世物小屋へと迷い込んだかのような強烈な視覚的効果の乱打が、作品に大きな魅力を付加していることに疑いはない。そういう華やかな仕掛けの数々は、観ている我々に単純にワクワクドキドキさせる効果を放っていくのだ。演劇がナマものである優位性をこれでもかと具体化して提出していくパワーに、だんだんと身も心も巻き込まれていく。

 ファウストはメフィストフェレスと契約し、魂を売り渡すことで全ての願いを叶えるという条件を24年間の執行猶予付きで手に入れることになる。ローマ法王を弄んだり、黒魔術師として各国朝廷でパフォーマンスを演じ金を稼ぐなど、ファウストは勝手気ままに過ごしていくが、彼が常に嘲笑の対象としているのは権勢を奮う権力者たち。ここに、作者であるクリストファー・マーロウの心情が見て取れる。スパイであるという裏の顔を持つこの劇作家は、戯曲という手法で社会を牛耳る強者に悪戯を仕掛け、権力者たちの脆弱な裏面を露呈させることで、自ら快哉を上げていたのかもしれない。また、その小気味良さが、当事の観客たちの代弁者ともなり人気を博すことにもなったのであろう。

 今回のキャスティングはなかなか多種多彩な役者が集う強力な布陣が組まれている。主要キャストの野村萬斎、長塚圭史、白井晃などは、役者と共に演出や作家というパートに並行して取り組んでいる異彩である。その彼らが、蜷川演出の下、役者のみに徹しているのが面白いし楽しい光景だ。このメンバーが役者として一同に会する機会は、多分きっとないに違いない。

 野村萬斎はタイトルロールを演じて、強烈なパワーとその奥に潜む弱さを逡巡させる様に哀れを感じさせ圧倒的である。悶々と悩んだり、先のない未来を変に悲嘆したりし過ぎたりしないためスッと観る者の思いをオーバーラップすることが出来、また、運命と人生の在り方を俯瞰し上手く昇華させて提示してくれるので、物語としてその流転の人生を我々観客が楽しんで観ることが出来るのだ。長塚圭史は2部だけの登場と出演場面は少ないが、役者が本業でない者の、演技をし過ぎない異物感が面白いアンサンブルの1片を成している。白井晃は、歌舞伎一座が演じる公演というバックボーンを意識しながら、一人の役者がいくつもの役を演じるということを演じているというフェーズに居て、作品を重層化させる存在であった。

 勝村政信はどうしても真面目になりがちな作品のベクトルを、軽業師のように笑える方向へとシフトチェンジさせ観客を大いに湧かせる。例えば、フライングしている様をわざと手をバタつかせ、この可笑しな虚構を自虐的にあざ笑うという様な塩梅で、観客との距離を一気に縮めていく。しかし、野村萬斎と「ラ・クンパルシータ」のタンゴ調べに乗って舞うシーンでは、スッと色気を忍ばせ妖しい雰囲気も醸し出す。木場勝己がこの目まぐるしく展開する物語の中において、口上という役割もあってか、常に事の成否を静観しているその客観的視点が、作品にシニカルなアクセントを付け加えている。

 

 作品の中にこれでもかと様々な演出的要素が詰め込まれたのは、最近の蜷川演出としても珍しいくらいのバリエーションの多さではないだろうか。しかし、こういった派手な仕掛けが、ともすると小難しい神学論争に作品を傾かせることなく、その作品の根底にあるクリストファー・マーロウが社会に対して発破を掛けた諧謔の精神を、クッキリと浮かび上がらせることに成功している。一見、古色蒼然とした戯曲から、パワフルな精神を掴み出しエンタテイメントとした叩き付けた本作は、人間の業の強さと儚さとを描き、秀悦で、かつ、美しい傑作に仕上がったと思う。