劇評160 

三島の「孤独」を掬い出し、現代へとブリッジさせた室内劇の逸品。

「ミシマダブル」

作:三島由紀夫 演出:蜷川幸雄


「サド侯爵夫人」

2011年2月5日(土) 晴れ  シアターコクーン 19時開演
出演:東山紀之、生田斗真、木場勝己、
    大石継太、岡田正、平幹二朗

「わが友ヒットラー」

2011年2月12日(土) 霙 シアターコクーン 19時開演
出演:東山紀之、生田斗真、木場勝己、平幹二朗

場 :  三島由紀夫のこの二つの戯曲が、同じ役者によって演じられるという作者が望んだ形態での上演は、本邦初であるという。「サド侯爵夫人」は、客入れの状態に於いては、全くの素舞台。開演間際に、舞台背面の文化村の駐車場へと通じる扉が開け放たれる。「わが友ヒットラー」に於いても同様だが、開場時には、舞台中央にシャンデリアが吊されているという相違点がある。また、開演前に舞台後方の扉が開くは同じなのだが、扉の奥、駐車場側に照明が仕込まれていて、舞台側に向けて光を放つことになる。この、扉が開く演出に驚く観客が多い様に見受けられるが、蜷川演出では、良くある手法である。今回は、クローズされた演劇空間を、扉を開くことで、一旦、現実世界とコミットさせ、観客の気持ちを引き付け、劇世界へと誘う効果を狙っているのでしょう。
人 :  両公演共、満席です。立ち見の方もいらっしゃいます。客層は女性が多いですね。でも、男性も2〜3割は居るでしょうか。男性の場合は、一人来場者が多い感じがします。何処に惹かれて、来場することになったのかは、良く分かりませんが、文化をたしなむ男性が増えるのは良いことだと思います。

 「サド侯爵夫人」は傑作戯曲としての揺らぎない地位を確立した三島由紀夫の名作だが、戯曲という域に留まることなく、「サド侯爵夫人」という一つのジャンルを確立した作品なのだということに改めて気付かされることになる。華美な衣装をまとい、豪奢なレトリックを駆使して、18世紀ブルボン王朝末期のパリの貴婦人たちが描かれていくのだが、外国人を日本人が演じるという嘘を逆手に取り、仕組まれた表層的な装いの中に潜む毒を吐き出させていくのだ。本作はそれを男優が演じることで、より一層、演じているのだという虚構の構造が、くっきりと見え易く提示されることになる。翻訳劇とは明らかに意を異にする意図が、そこにはある。

 それにしてもこの装飾的な言葉の数々と、尋常でない膨大な台詞量は、人間の記憶力の限界を超えているのではないかと思わせる位、生身の人間が演じるという配慮のない、演じる者にとっては容赦ない苛烈な戯曲である。台詞を一旦身体の中に入れた上で言葉を吐かないと嘘が嘘の域で留まってしまうのは芝居の常であるが、本戯曲はその範疇においても成立するように書かれているため、役者にはそれを超える更なるハードルが架せられるという過酷さがエンドレスに繋がっていく。

 頑強な台詞に拮抗するためか、演出は、語りの其処此処に、鼓の音をアクセントとして挟み込んでいく。この和のアプローチは興味深く、ある種のリズムは生まれるのだが、少々、多用し過ぎではないかと思った。

 役者は実力派が居並んだ。平幹二朗の圧倒的な存在感は作品の大きな支柱となっている。あらゆる声質や詠唱法を駆使し、三島が創り上げた世界とガッツリと対峙しながらも、しっかりとその世界を我が手中に納めてしまう才能には舌を巻く。木場勝己のアプローチもまた見事だ。変に女性を演じるということに寄り過ぎることなく、女性の中の男性性とも言うべき部分を全面に押し出し、独自の女性像を造り出す。東山紀之は主役のオーラを放ち、観客の視線を釘付けにする。しかし、大ベテランを前にすると、台詞廻しの多彩さ、巧みさなどにおいて大きく乖離していることが露見する。しかし、滔々と美しい言葉を謳い上げる話術で観客を魅了し、その落差を埋めていく。生田斗真は行動力ある奔放な女性像を造り上げるが、ピュアな感性の奥に秘められた女の行動の起因となる核が見えずらい。大石継太は気品ある夫人の役柄であるが、カン高い声のトーンや急いた感じの台詞の被せ方などが、どうしてもコメディリリーフ的な傾向に流れがちになっていると思う。岡田正は、主人と元主人への忠誠の尽くし方のその本心が、透けて見えてこない。しかし、本作は、平幹二朗と木場勝己に牽引され、濃密で緊張感ある室内劇にまとまったと思う。

 「わが友、ヒットラー」は、男4人の芝居だが、「サド侯爵夫人」と三島が対だと捉えていたように、陰陽、男女を逆さ合わせにしたような共通性を孕んでいる。レーム事件に材を取った本作は、その事件に至るまでの経緯を、レームとヒットラー、武器商人クルップ、左派シュトラッサーに焦点を絞り、密室の中で起こった出来事を綴っていく。

 本作は「サド侯爵夫人」の鼓のような効果音などは一切挟まず、台詞のみで直球勝負を掛けてくる。文体も比較的現代劇に近く、男が男を演じるというノーマルな設定なため、グロテスクな怪異さとはまた違ったパワーを付加させなければならないという課題を抱えることになる。

 本作の演出的ポイントは、レームとヒットラーを中心に描かれる、ホモソーシャル的な世界観だ。レームとヒットラーは頻繁に抱擁を重ね、膝枕までし合う仲として描かれる。政治的な駆け引きという視点からではなく、レームを慕い、尊敬するが故に、そういう存在にはなることが出来ないことの鬱陶しさが「裏切り」という決断をヒットラーに起こさせる、その愛憎が合いまみえる様を克明に描き出していく。

 ここに、「サド侯爵夫人」との共通性が浮かび上がってくる。それは、他人を欲しているのに、決して受け入れることのないという「孤独」を、サド侯爵夫人もヒットラーも抱えて生きているということだ。もちろん、この「孤独」は、三島の心情が反映されたものに他ならない。

  ヒットラー演じる生田斗真は、その逡巡する感情を迷いなく直情的に演じ、物語の中心に立ち続ける。それに対するレーム演じる東山紀之は、ゲルマンの優位性を兼ね備えた完璧な男と思われている様に自身が重ね合うかのようでもあり、最後までヒットラーを疑うことなく滅んでいく姿にデカダンな優雅ささえ感じさせる。また、ここでも、平幹二朗のしたたかな商人振りと、木場勝己の崩壊を予感し得る者の怯えと弱さが際立ち、各人が絶妙のアンサンブルで、見事にバランス良くカルテットを奏でていく。

「政治は中道をいかなければならない」というヒットラーの言葉で本作は締め括られるが、自らを中道と言わせしめるアイロニーが、後に続く惨劇の予感にも思えてくる。そして、その言葉を吐き出した直後の生田斗真は、今だ、困惑に渦中にいるようにも見えた。政治の歩を進めることには成功したが、本当に望むものは手に入れることが出来ないというある種の諦めが、彼を永遠に苦しめているようにも思えてくる。

 両作共、サド侯爵夫人とヒットラーが立ち尽くすというエンディングであるが、その背後からは装置が剥ぎ取られ何も無い素舞台の中に、人物は置き去りにされたかのような状態となる。そこに提示されるのは、底無し沼の様な「孤独」。どこをどう斬っても、この三島作品から流れ出てくるものは、三島の「孤独」そのものでしか有り得ない。蜷川演出は、その「孤独」を掬い出し、現代の観客の意識にブリッジを掛けていく。いくつもの思いが交差する、室内劇の逸品に仕上がったと思う。