劇評180 

容認と言う行為が、世の不寛容さを少しでも消滅させられる可能性を、演劇の力で証明した秀作。

「ルート99」

2011年12月11日(日) 晴れ
彩の国さいたま芸術劇場 小ホール 14時開演

作:岩松了
演出:蜷川幸雄
出演:さいたまゴールド・シアター、川口覚、
周本えりか、深谷美歩(さいたまネクスト・シアター)

場 :  彩の国さいたま芸術劇場 小ホールの、ステージの3方を囲むコロシアム状にせり上がった馬蹄形の客席は、比較的どの位置からでも観やすいので有り難い。但し、劇場内にお手洗いがないため、開演前や休憩時に地下1階のお手洗いには長蛇の列が出来ています。

人 :  以前は出演者の知り合い風の方々が、其処此処で挨拶する光景が多く見受けられましたが、一般客の比率が増えてきたのでしょうか、劇場内は比較的開演前は静かな雰囲気です。9割位の入りでしょうか。若干空いている席がありますね。

 岩松了がさいたまゴールド・シアターに戯曲を書き下ろすのは4年振り、「船上のピクニック」以来となる。今まで名だたる作家が同劇団にオリジナル新作を提供してきているが、それには何か訳があるに違いない。蜷川幸雄に請われてということもあるのだろうが、平均年齢72歳の42人のメンバーが積み重ねてきた人生のリアルが、この上なく創作意欲を掻き立てるのではないだろうか。

 それは、観客として作品を観守る私たちも、きっと同じ様な思いを抱いて劇場へと足を運んでいるのだと思う。所詮、芝居は、作りごとであるという前提に成立しているものではあるのだが、本当の人生が詰め込まれているのだと感じ入ってしまう魅力が同劇団には存在するのだ。公演として成立させるまでの苦労は計り知れないものがあるのだと思うが、他のどんな演劇公演でも味わうことの出来ない芳醇な味わいが楽しめるという点において、唯一無二であると思う。

 今回、岩松了が選んだ舞台は「基地」である。沖縄を彷彿とさせる地において、様々な立場にある人々が、それぞれの立脚点に立ち、正面切って自分の意見を主張し、議論を展開していく。そこに、本土から招いた劇団の人々が忠臣蔵をテーマに取った演劇公演を行うというエピソードが挟み込まれることにより、さいたまゴールド・シアターの面々が芝居を演じているのだと言う二重構造の枠組みという設定が、さらに作品にリアルさを付け加えていくことになる。実に面白い設定だ。

 物語は基地内部の撮影を許された地元の男たちが、基地内でカメラマンとして写真を撮るシーンからスタートする。基地内に入るには、パスポートが必要で、その中の一人は期限切れのパスポートを提示したが気が付かれなかったと語る。冒頭から、くっきりと、基地とその外との境界線の刻印を押していく。

 そして、物語は、不安な予感を孕んだ展開を示していく。基地のフェンスに沿って島の南北を貫く「ルート99」に、地元の名菓がばらまかれるという事件が勃発したというのだ。そして、その犯人としてトラック運転手ヨシユキが逮捕されたらしい。また、タチバナという青年映写技師もその事件に関係しているらしく、今は失踪中だという。場は、島の住民と基地内で働く日本人が車座になり、起こった事件について議論と交わすシーンへと移行していくことになる。

 皆は意見をぶつけ合うのだが、何かの思想に考えが集約されていく気配は微塵もない。どうやら、作者は、物語を展開させていくことよりも、人間が集うことでくっきりと浮かび上がる、人間の“差異”を顕わにさせていくことにより、世の混沌の真因を突き止めようとしているかのようでもある。結論を急ぐことなく、物事を開陳して、陳列してみせることで、我々に問うていくのだ。あなたは、どう考えますか、と。

 基地がそこにあるということが、そこに住む人々にどのような影響を及ぼしていくのか? そこで働く人と外部で働く人の相違、地元と本土の人々の相克、高齢者と若者との温度差、劇団内部の確執や演出家との対峙、予知とリアルな現実などなど、相対する様々なアイコンを据え置いていく。また、土地を奪われた精霊たちも立ち現れ、時空間も錯綜していく。

 思いを抱いているだけでは何も伝わらない、声に出さなければ理解すらしてもらえない。そのことを伝えるためには、老成した肉体という楽器が実に有効に機能を発揮していく。衝突を恐れる若い御仁とは、そのコミュニケーション手段を異にするが、これは先人たちからのエールとも叱咤とも受け取ることが出来るのではないか。

 終盤、地元の若い巫女姉妹の姉が白い布を前に吐血するシーンがあるのだが、その血の赤い染みがまるで日章旗のようになり、その赤い部分が朽ちていくリアルを見て絶句する。言葉にすることが出来ない実に複雑な要因を、実にシンボリックに視覚化したこの秀逸さ。連綿と流され続けてきた血の上に今が成り立っているのだと感じ入ると同時に、今、この2011年に起きた惨事なども、未来永劫に渡るまで断ち切れることが出来ないのだという事実を突き付けられ愕然ともする。

 人間のそれぞれの在り方を認め合い、そこの在るものとして認識していく、その容認するという行為が、世の不寛容さを少しでも消滅させていくことに役立つのではないかという熱い思いを感じることが出来た。

 最後まで姿を現さないタチバナであるが、不在の者が影響を行使する不思議を感じつつ、劇団の演出家が「タチバナと呼んでみてくれ」と問う姿を見て、この物語は演劇の力を再認識するための大きな仕掛けでもあったのだと気付くことにもなる。秀作であると思う。