劇評185 

演技には堪能させられたが、群舞の演出処理を一考したものが観たいと感じる。

「ガラスの動物園」

2012年3月10日(土) 晴れ
シアターコクーン 18時30分開演

作:テネシー・ウィリアムズ
演出:長塚圭史 翻訳:徐賀世子
出演:立石凉子、深津絵里、瑛太、鈴木浩介 ほか

場 :  初日である。が、ソワレは2回目公演。マチネが初回とは意外に珍しいかも。劇場内に入ると、ステージ上に既に設えられた装置が見えています。グレーの色彩で統一された部屋のイメージのようです。しかし、街灯のようなものも立っているため、きっと、場面ごとで、様相を変えていくのでしょうね。また、天井まできっちりと造り込まれているため、あれ、照明は何処から照らすのかな?と心配になってしまいます。結果、上からの照明は、天井の開いた隙間から光が差し込んでくるようになっていました。ステージは、若干傾斜になっています。

人 :  ほぼ満席の入りです。客層は男女半々位かな。年齢層は総じて高めです。演劇を見慣れたツウな方多しな印象です。

 舞台となるのは、失踪した父に残された、母、姉、弟の一家。母は、姉に早く良い縁談と巡り合えるよう口うるさく、そういう母を煩わしく思っている弟に対しても母基準の常識を押し付け、弟と母との間の溝は深くなっていく。また、姉は自閉気味の内気な性質であり、弟はいつかはこの場所から飛び出したいと考えている。このシチュエーション、まるで、現代日本にも通じる光景ではないか。

 「ガラスの動物園」がブロードウェイで初演されたのが1945年。敢えて言うまでもなく、70年近く前に書かれた作品であるが、今、観ても決して褪せることのない戯曲の精度の高さに驚愕した。ギリギリの極限にまで追い詰められた人間の感情を、まるでピンセットで摘まんで標本にするが如く、繊細でヒリヒリとした筆致で描ききり、本作が紛れもない傑作戯曲であることを再認識することになる。

 この傑作戯曲の調理を担当するのは、多くの海外戯曲の演出も手掛けてきた長塚圭史。物語は弟が昔日の風景を思い出すという構成で紡がれているのだが、二村周作の手によるグレーの壁に覆われた閉鎖的な空間で展開される本作は、過去を振り返る甘酸っぱい叙情性よりも、登場人物たちのどうしても埋めることが出来ない心の空洞がより強調され、その心情を現代の観客とクロスさせていく。あらかじめ全てを失ってしまっている人々の、行き場のない空虚さがフワリと立ち上がる。

 物語は意地悪な展開を示していく。家族だけで完結しているのならまだしも、1人の闖入者が現れるのだ。母は姉の結婚相手を弟に紹介しろと頼み、弟は仕事場を同じくする同僚を、ある晩、食事に招待するのだ。その同僚はかつてハイスクールで姉と同窓であり、また、姉の初恋の相手でもあったということも分かってくる。同僚は姉に好意を抱くのだが、フィアンセがいると立ち去ることになる。夢にすがるような思いは断ち切られ、何処に行くことも出来ずに、家族は昨日と同じような生活を続けることを余儀なくされていく。

 母のアマンダを演じる立石凉子は、正気の常識と妄想の暴走が絶妙に織り成され、憎らしいけれども憎みきれない情愛を放ち、また、これまで一家を支えてきた気骨をも感じさせ、物語の中心に聳え立つ。権勢と友愛とが瞬時に転換する感情表現を説得力を持って演じ抜く。

 姉を演じる深津絵里が素晴らしい。感情をひたすらに押し隠しながら生活しているのだが、キラリとローラの本心を垣間見せていく、そのさじ加減が繊細だ。そして、観客はその静謐な佇まいに、だんだんと引き込まれていく。驚愕したのは、幼馴染のジムとのシーン。ジムがローラを誉めそやしていくのだが、その話を聞いているローラの顔はだんだんと紅潮していく。そして、キッスをすることでボルテージは最高潮に達する。ローラのジムを見つめる顔は恋する乙女のそれだ。しかし、ジムはフィアンセがいることを語り始めるとローラは凍りつき、天上へと昇った後、奈落の底にまで突き落とされる感情を、一言も発せず表現した姿に戦慄を覚えた。

 瑛太は弟のトムを演じるが、ストレートな演技の直球勝負で挑んでいる。声も通り、言葉は明瞭に聞こえてくるのだが、全ての感情を台詞に載せて出してしまっているので、感情の多重性、例えば、トムが抱え込んでいる鬱屈した思いなどが、平坦になってしまうきらいがある。裏も表ない、好青年風に仕上がっているのだ。それを、どう捉えるかは観客次第だが、作品の奥行きを少し狭めている気がした。

 ジムは鈴木浩介が演じるが、二枚目過ぎず、人生のピークから少し落ちかけているという諦めも感じさせながらも、深刻にはならないコミカルな軽さがあるため、一家の深刻さと対を成す立ち位置を獲得していく。ジムの適度な軽いスタンス具合が、作品に軽妙さを与えている。

 本作には、物語の運命を俯瞰し、登場人物たちの感情に寄り添いながら、その進行を見守る女性の群舞が登場する。まるで、言葉を語らぬコロスの様な存在だ。室内劇をシアターコクーンで上演する際に、800人強の観客に向けて何か仕掛けを施さなければ、戯曲に潜む感情を伝え難いという思惑が長塚演出にはあったのかもしれない。しかし、この群舞は、展開する物語に反応し過ぎであり、また、衣装がブルマ風であったりすることからも、その存在が妙にナマナマしく、異空間の存在として昇華しきれていないため、メインの物語展開の集中力を欠く結果になってしまったと思う。新たな挑戦が仇になる結果となってしまった様なのだ。

  役者は見応えタップリでその演技を堪能させていただいたのだが、群舞の演出処理を一考したものを観たいと思った。