劇評205 

実に見応えのある秀逸な人間悲喜劇。


 「日の浦姫物語」

2012年11月10日(土) 晴れ
シアターコクーン  18時30分開演



作:井上ひさし 演出:蜷川幸雄
出演:大竹しのぶ、藤原竜也、辻萬長、たかお鷹、
立石涼子、木場勝己、他

  

場 :  初日である。何だかロビーのあちらこちらで、ご挨拶などが交わされていて、活気ある雰囲気が漂っています。飲食コーナーや物販コーナーも活況を呈しています。劇場内に入ると舞台には定式幕が下ろされています。和のアプローチが成されることが表明されています。

人 :  満席です。チケット売り場では、当日券が発売されています。概して、演劇を見慣れた感じの方々が多い気がします。年齢層は40歳以上と高め。昨今、チケット代が1万円前後の公演の場合、若者の観劇割合が少ないのは致し方ないのかな? 

 杉村春子に井上ひさしが宛て書きした本作であるが、34年の時を経て、稀代の名女優・大竹しのぶが日の浦姫を演じることで、戯曲に生命が宿り見事に甦った。戯曲はいつの世においても演じられることにより、命を吹き返すものなのだと、改めて感じ入ることになる。

  平安時代、奥州の御館の夫婦が母の命との引き替えにして生まれた兄妹が、15歳に成長した時姦通するに至るが、その際に産まれた子どもは、まるでモーゼのように流されるという憂き目に遭う。そして、18年後、既に兄は死しており、妹・日の裏姫は独り身のまま過ごしていた。そして、日の裏姫の前に魚名と名乗る若武者が現れ、共に惹かれ合い、夫婦の契りを交わすことになるのだが、実は、二人は生き別れた親子同士だということが露見していくことになる。

 物語のアウトラインは、悲劇である。オイディプスが原点かと思いきや、グレゴリウス一世の生涯がモチーフとなっているのだという。作者である井上ひさしが、中学3年から高校卒業まで過ごしたカトリック孤児院で発想を得たようだ。カトリックの聖人伝講義を聞いたのがきっかけだというが、日本にも酷似した近親相姦の説話が沢山あることが分かったという。そこで、日本を近親相姦社会だと捉えた井上ひさしが筆致する物語は、アイロニーと笑いとが融合した悲喜劇という手法を取り、氏独特の世界観が色濃く反映されていく。

一見、リアルさからは遠く離れた境地に物語はあるかのように思えるが、その非日常的な世界を逆手に取り、優美さを保ちながらも荒唐無稽な生き様を面白可笑しく提示することで、井上戯曲の真髄を掴み出すことに成功していると思う。人間の中に巣食う様々な呪念を、多面的な方法で切り取っていく蜷川演出の、この世から俯瞰した視点が本作のポイントとなっている。悲劇的な物語という側面だけに沿うことなく、人間が懸命に生きているということ自体が、そもそも可笑いのだということを、充分に感じさせ堪能させられる。 

 この作品世界を具現化させるために集められた俳優陣が、幾重にも重ねられたベールを同時に透かせて見せるが如く、実に複雑に入り組み、突飛ともいえる物語展開にも説得力を付与させていく。しかも、常に笑いの要素が忘れられていないため、深刻なツボに陥ることなく、軽妙さが維持され心地良い。

 大竹しのぶがタイトルロールの日の裏姫を、15歳から初老の時期までを違和感なく演じきる。幼き頃の乙女の初々しさ、禁忌を犯した自分を律して生きてきた禁欲的な姿、そして、その呪縛から解き放たれパッション全開になるのだが、襲ってきた悪夢に立ち向かいながらも、その事実をまるで笑い飛ばすかのようなパワーを振り撒き、一気呵成に駆け抜け絶品だ。

 兄と息子とを演じる藤原竜也は、兄の時はしっかりと日の裏姫の兄として存在し、息子の際には、歳の差を感じさせる素朴で純真な部分をグッと強調していく。また、夫となってからは、男の色香を漂わせ、大竹しのぶとの丁々発止にやり取りも可笑し味を忍ばせる。また、人生が一転し流転していく様にも、その生き様を享受するかの様な俯瞰する視点が見てとれて潔い男を造形する。

 木場勝己と立石涼子が、主に説教聖と三味線弾きの女を演じ、物語の語り部の役割を担うが、近親相姦の話は実はこの二人の間で起こった事実であり、一種の贖罪のために、この顛末を語り歩いているのだということが明かされることになる。井上ひさしが捉える、日本=近親相姦社会という構図がクッキリと現れてくる。

 終盤、説教聖と三味線弾きの女の真実の吐露を聞く街の人々は、平安の時代から一気に現代へとワープし、普段着の皆々が二人を取り囲むように立ちすくみ威圧する。そして、民衆たちはそんな二人に石を投げ付け始めることになる。己の内に宿るドロドロとした情念を、まるで他人事のように忌み嫌う態度を示す日本人の在り方を浮き彫りにしていく。怖い。でも、しかと、このメッセージを受け止めなければ、私たちは永遠に変わることができないのかもしれない、という強烈なカウンターパンチが食らわせられることになる。

 グレゴリウス一世だろうが、平安時代だろうが、元ネタが何処に準拠していたとしても、作家の矛先は常に“今の時代”へと向けられていること、そのことに驚きを隠せない。34年前も今も、相も変わらぬ日本人の血脈を抉りだした秀逸な戯曲を、才能溢れる演出家と俳優陣の手綱捌きにより、普遍性ある物語として甦った本作は、まるで、生きている人間そのもののような熱さ、醜さ、可笑しさを孕み、観る者の心の奥底に深く沈殿していくことになった。実に見応えのある秀逸な人間悲喜劇に仕上がったと思う。