劇評219 

観る者に、現状を疑問視せよとも言うべきメッセージが込められた弩級の衝撃作。

 
「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」

2013年6月16日(日) 晴れ
神奈川芸術劇場大スタジオ 14時開演


作:清水邦夫 演出:蜷川幸雄
出演:さいたまゴールド・シアター、
さいたまネクスト・シアター

  

場 :  パリ公演で評判を取った後の、2回限りの神奈川公演です。席は自由席です。チケットに整理番号が記されており、その番号順に入場していくことになります。関係者席の傍の席に陣取ることにしました。

人 :   満席です。舞台前面には当日席の方々が座られています。年齢層は総体的に高めですね。観客席には、木場勝己さん、辻萬長さんがいらっしゃいました。

 1971年に初演された清水邦夫の戯曲が、約40年の時を経ても決して古びることなく、見事に現代に甦った現場に立ち会えた幸せを享受する。その立て役者は、言わずもがな演出の蜷川幸雄である。

 蜷川幸雄はさいたまゴールド・シアターというリーサル・ウエポンを得て、盟友の劇作を、ある意味正しい形で提出することを実現した。老婆の役どころを本当の老婆たちが演じるっことを実現させたということだ。老婆たちがそれぞれに抱えて生きてきた本物の人生の年輪が、既存の体制に発破を掛けるこの物語とリンクし、老婆たちが取る過激な言動に説得力を与えていく。リアル・メディアである演劇の特質が、最大限に活かされる瞬間を目の当たりにする。

 オープニングは「零れる果実」以降、度々登場している手法でスタートする。水槽に入った役者たちが皆、繭から解き放たれるが如く少しずつむくむくと台詞を発していきながら甦り始めていくのだ。幽玄な雰囲気を湛えながら幕は切って落とされた。

 ステージの周囲に突如として幕が振り落とされ、その場は裁判所の法廷の場へと一気に変貌を遂げる。そこでは、二人の青年が、チャリティーショーに手製爆弾を投げ込んだ罪で裁判に掛けられている。青年たちは小難しい言葉を駆使しながら声高にアジテーションしていくが、裁判官にも、観客である我々にも、その主張の真意はなかなか届くことはない。言葉が目の前でクルクルと空回りをしている感じがするのだ。しかし、そこには妙な可笑し味が生まれ、青年たちの青二才振りが強調されていく。

 その法廷の中に、何処からか、一人、また、一人と20人程の老婆たちが現れてくる。皆それぞれに、料理をしたり、洗濯物を干し始めてりして、法廷は日常的な生活の場へと一変する。この決して贖うことの出来ないリアリズム。そして、老婆たちは、看守を退け、裁判官や検事、弁護士たちを人質に取っていく。法廷は老婆たちに占拠された。

 法廷という場において、既成の権威の転覆が謀られるというアイロニーが効いた展開に嬉々としてしまう。約40年前の初演時と現在とでは生活者を巡る社会環境は全く異なるが、何時の時代にも変わらないものがあるということを、この作品と対峙することで発見する。それは、体制が孕む欺瞞とそれを剥ぎ取ろうとする大衆の欲望との対立構造だ。

 裁判所側の人物もさいたまゴールド・シアターの男優陣が演じるため、青年二人以外は老齢の演じ手だけになるが、舞台の緊張感が緩むことはない。皆が束になってありったけのパッションを放出してくるため、舞台には隙間なく登場人物たちの気が張り巡らされていくのだ。また、役者の序列がない故、皆がフラットなポジションに立つことを可能とし、純粋な群像劇が成立することにもなっている。

 さいたまゴールド・シアターの面々は更にスキルをアップさせ、プロンプに頼ることなくアグレッシブにそれぞれの役を生き抜いている。その姿に観る者は知らず知らずの内にエンパワーされていくことになる。インティメイトな関係性が役者と観客の間に自然発生的に生まれ、観ていて心地良い感触を得ることが出来るのだ。ある種の幸福感に包まれていく。

 体制側の人間たちは死刑宣告を通達され、撲殺される者も出て来る。老婆たちは粛清ともいうべき行動を取っていく。しかし、法廷の周りは機動隊に囲まれることになっていく。この状況は、予定調和であったのだろうか、体制に風穴を開けること自体が目的なのであろうか? 脱出を想定しない無軌道な行動は、終ぞ袋小路に押し込められることになる。

 エンディングのどんでん返しは、正にサプライズだ。キャストに、さいたまネクスト・シアターとクレジットされているのがヒントとなるが、物語は時代を凌駕し、一種の寓話ともいうべき物語に、直情的な結末を叩き付ける。そこで、ハッと目覚める自分がいる。観る者に、現状を疑問視せよとも言うべき熱いメッセージが込められた弩級の衝撃作であった。