劇評252 

藤田貴大の才気に身を委ねることの幸福が甘受できる傑出した逸品。

 
マームとジプシー
「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと―」

2014年6月14日(土) 晴れ
東京芸術劇場 シアターイースト 18時開演

作・演出:藤田貴大 
出演:石井亮介、伊東茄那、荻原綾、
尾野島慎太朗、川崎ゆり子、斎藤章子、
中島広隆、成田亜佑美、波佐谷聡、召田実子、
吉田聡子

   

場 : チケットに印字された整理番号順に劇場内に入るシステムです。開場時間前からロビーには入ることが出来、そこでしばし17時30分の開場時間を待つことになります。ロビーでは、野田秀樹作、藤田貴大演出の「小指の思い出」のチケットが先行販売されています。劇場内に入ると、既にセットが組まれています。役者の方が、舞台上にフラリといった風に出てきたりもしています。

人 : 総体的に観客層は若いですね。そんな中にちらほらと年配の方が混じっているといった風です。舞台を見つめる視線が温かな感じがします。

 マームとジプシーの舞台には、独特の肌触りがある。物語を語っていくのではなく、人々の記憶にある出来事の断片を紡いでいく内に、自然と物語が立ち上っていく感じなのだ。登場する家族たちのシーンの断片が連綿と展開してくのだが、感情が途切れず繋がっていくため、観客が、舞台上で生きる家族に上手く感情を載せていき易いのだ。

 時間軸もなかなか壮大だ。幼少期から成人後までの20年位なのであろうか、その時空間をスルスルと行き来しながら、家族たちが共有する思い出を全て取り込んでいくのだ。身体の奥底に沈殿していた幼い頃に体験した様々な感情が、知らず知らずの内に掘り起こされていく。抒情詩でありながら、叙事詩的な風合いを併せ持つ、その肌触りが実に身体に馴染み心地良い。

 胸の中で湧き起こる、このノスタルジックな感情は一体何に起因するのかと思いを巡らせてみると、“喪失感”に行き当たった。父を亡くし、成長した皆が離れ離れになることで家族の形態を失くし、区画整理で家を失くすことにもなっていく。その象徴がタイトルにもある「食卓」だ。ステージ後方に吊り下げられたスクリーンは、舞台脇で調理されている料理を作る過程が度々映し出されていく。

 地域の役所などから夕方流れてきていた「夕焼け小焼け」などの、かえりの合図。そのメロディーを聞いて帰宅すると、そこにあるのは家族皆で囲む食卓。その食卓があった頃と、喪失してしまった今の自分とのエア・ポケットの狭間に、心がストンと嵌っていく。

 同じシーンが繰り返し何度もリフレインされていく。俳優陣がグルリと身体をでんぐり返しさせ変転させると、再び、その光景が立ち現れてくる。飽きるかと思えば、その都度、全く新鮮な気持ちで舞台に接することが出来るのだ。“記憶”なのであろう。心に残っている“あの時”のことが、まるで頭の中で逡巡しているかのような感じなのだ。沁みてくるのだ。ジワジワと心の隙間に、架空の記憶が忍び込んでくる。

 木組みで造作された枠組みが、シーンごとにマジックのようにコロコロと変化していく様も、同劇団の醍醐味だ。巣舞台に立ち上がる、木組みで構築された世界が目くるめく現出する様にグイグイと意識が取り込まれていく。この物凄い数の段取りの連続を澱みなく展開させること自体が驚異だが、まるで万華鏡の如く瞬時に変化し繰り広げられる刺激的な演出に一時も目が離せない。

 俳優陣は皆、生成りの衣装に身を包み、その役柄の個性を一見取り去っているかに見えるが、逆に、沸々と湧き上がる感情が、パースペクティブに見通すことが出来る効果を生み出している。男優陣に関してだけであるが、しゃがんだりした際に、その穿いているパンツからアンダーウエアが少し見えるのだが、皆が、濃紺のものを身に付けているようなのだ。そこまで、演出家は統制しているのかと、少々、驚きが隠せない。美意識の徹底振りの一端が、こういうところにも伺える。

 演じ手たちがクリエイトする、役柄に対するアプローチも実に繊細だ。声高に台詞を謳い上げることなく、淡々とでありながらも、しっかりとした技術に裏打ちされた表現で、感情の襞が丁寧に紡がれていく。個が表出しないことが、普遍性を獲得することに繋がっていくのだ。そこに、観る者の共感性がシンクロしていく。成田亜佑美演じる長女が呟く「そっか、そっか」という言葉が頭にこびりついて離れない。全てを受容してくれているかのようなその温かさに心が絆されていく。

 仰業さを一切廃した中に生まれる日常を描いて白眉である。藤田貴大の才気に身を委ねることの幸福が甘受できる傑出した逸品であると思う。


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