劇評256 

2014年、観る者を裏切ることのない面白さと刺激に満ち溢れた作品として甦った。

 
「朝日のような夕日をつれて2014」

2014年8月9日(土) 小雨
紀伊国屋ホール 19時開演

作・演出:鴻上尚史 
出演:大高洋夫、小須田康人、藤井隆、
伊礼彼方、玉置玲央
 

   

場 : 「朝日〜」です! 紀伊国屋ホールです! 開演時には、入場するために長い行列が出来ていました。皆さん、心待ちにしていた演目なのでしょうね。観客の前のめりの思いが劇場中に充満している気がします。エントランス脇には鴻上さんが佇み、入場する人々の姿を見つめていたのが印象的です。

人 : 年齢層はやはり高いですね。男女比は半々ぐらいでしょうか。かつての第三舞台の観客たちが舞い戻ってきた感じがします。一種の同窓会的な雰囲気とでも言ったらよいでしょうか。

 「朝日のような夕日をつれて」が2014年に還ってきた。初演から33年も経っているのですね。感慨深いです。これまで、再演を繰り返してきた鴻上尚史の人気の演目であるが、何故、2014年今、再度上演を決行することになったのか? その意図は何処にあるのだろうかという思いが頭をもたげていく。

 おもちゃ会社をベースに展開していく本作は、上演されたその時代に流行しているおもちゃをモチーフとして取り上げていくことになる。初演時は、ルービックキューブだった筈だ。TVゲームなど影も形もない時代であったが、今となっては隔世の念を禁じ得ない。もう時代を引き戻すことは出来ないし、物事は変化し続けるのが世の習いなのだ。

 今回の物語の主軸となるのは、日常生活の中で非日常を体験することが出来るゲームである。フェイスブックを始めとするSNSなどで開陳している個人情報を下に、それぞれの人たちの嗜好性に合致した、決して傷付くことのない世界を体験出来るというものに、ゲームは行き着くことになる。時代を的確な視点で捉えてきた鴻上尚史は、2014年に望まれているであろうゲームを、そのように規定してみせる。

 片や、初演から変わらぬモチーフとして、「ゴドーを待ちながら」のエピソードが刺し嵌め込まれていく。ウラジミールとエストラゴンを担う大高洋夫と小須田康人という布陣は、初演時から変わることはない。初演時、当然、二人は学生であった訳であるが、ここに来て、実年齢の役どころを演じることになるとは。この光景に、感慨深い思いを抱いてしまう。

 これから流行するであろう最先端の娯楽を追い求めながら、ゴドーに象徴される“これからやって来るであろう何か”といった漠然とした期待や不安が共存した同戯曲の骨子は、実に鉄壁なものなのであったのだと感じ入ることになる。今という時代を、その内と外、過去と未来からアプローチをし、優しさを持って斬っていくのだ。どの時代においても、観客の真情を共振させる仕掛けがここにあるのではないだろうか。

 大高洋夫と小須田康人という重鎮が据え置かれていることが、観客の満足感を得るには重要なポイントになっている。かつて感動したものに再会したいという思いで来場されているリピーターの方々がどの位いるのかは定かではないが、第三舞台の幻影を追い求めて来た人々は、観客席を見渡してみても多い気がするからだ。しかし、本作では、藤井隆、伊礼彼方、玉置玲央というメンバーが加わり、新しい血液が注入されたかのような新鮮さを与えてくれる。進化するには、変化が必要なのだ。

 節目、節目に織り込まれるダンスは、やはり格好いいなあ。また、ボールを投げ合う応酬やフラフープを競うなどの他、お笑いの要素も沢山盛り込まれているのもいつもの定番で、楽しい限り。また、今回の被り物は、蟻、ときた。これに、「アナ雪」の歌を被せ、「蟻のままで〜」と替え歌にして披露し、笑いを誘う。しかし、ここには、一般人は「蟻のままで」いるのが良しともするタップリとアイロニーを込められた諦観した視点に、ついついほくそ笑んでしまう。

 もう、分かっているのだ。この後、どのような展開になっていくのかは重々承知なのだ。しかし、それをなぞられることが、とても快感なのだ。ラストのあの舞台が競り上がっていくシーンが観たいのだ。創り手たちは、その辺もはっきりとわきまえた上で、2014年の今問いたい「朝日のような夕日をつれて」を創り出したのだと思う。

 新たな情報をインストールしながら既視感をも満足させた「朝日のような夕日をつれて」は、観る者を決して裏切ることのない面白さと刺激に満ち溢れた作品として2014年、見事に甦った。


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