劇評266 

強烈なパワーは確実に連鎖することを確信し得る、稀有な体験を享受出来る精緻な室内劇。

 
「皆既食」

2014年11月15日(土) 晴れ
シアターコクーン 19時開演

作:クリストファー・ハンプトン
翻訳:小田島恒志
演出:蜷川幸雄
出演:岡田将生、生瀬勝久、中越典子、
立石涼子、土井睦月子、加茂さくら、辻萬長 /
外山誠二、冨岡弘、清家栄一、妹尾正文、
堀文明、下総源太朗、野口和彦

   

場 : それ程待たずに場内に入ることが出来ました。ロビーはいたって平穏な感じです。劇場内に入ると、既に組まれた室内のセットと対峙することになります。蝋燭に灯された炎が幽玄な雰囲気を醸し出しています。

人 : 満席です。若干の立見席が出ています。観客は女性の比率の方が少し多い感じでしょうか。年齢層は40〜50歳代がアベレージ。周りの方のお話を聞いていると、色々な演劇公演を観ている人が多いようです。

  かつて、野村宏信と田中実が共演した同作を観た記憶はあるが、どうしても映画「太陽と月に背いて」のディカプリオとデイヴィッド・シューリスの印象が鮮烈に記憶の中残っていた。本作の、ランボーは岡田将生、ヴェルレーヌは生瀬勝久で、映画版に近いキャスティングのイメージが彷彿とさせられる。

 舞台上には裕福なのであろう屋敷の居間が広がっており、蝋燭の光が揺れる幽玄な雰囲気を湛えている。生瀬勝久演じる老齢のヴェルレーヌがその空間に現れ、かつてランボーと過ごした日々を回想していくことになる。

 戯曲は登場人物たちの会話に徹底してフォーカスされていく。これ見よがしの外連味は一切廃され、作者は会話の中からその人物像を浮かび上がらせようと腐心していく。蜷川幸雄が室内劇を上演作品として選択するのもなかなか珍しいが、氏の興味はランボーにこそあるのではないかと感じていく。創造する者たちの、ある種のイコンでもあるランボーに肉迫することで、混濁する自らの創造の源泉を詳らかにしたいという欲望が沸き起こったのでは、とも想像してみる。

 俳優陣の力量と魅力とが大きく問われることになる戯曲である。ランボーを演じる岡田将生が初舞台だとは思えない程、生き生きと舞台上で躍動する。自分を巡る様々な事象に迎合することなく自己中心的な言動を貫いていく。そして、まるで求道者のように自らの意識をギリギリの状態にまで追い込むマゾヒスティックな側面を併せ持ちながらも、追い求める真実を希求するカラカラに乾いた渇望を、観る者に切っ先鋭く叩き突けてくる。ランボーの心の慟哭が、声なき叫びとなって、心が鷲摑みにされていく。

 人間が心の内に孕んだ矛盾する可笑し味を臆することなく大胆に開陳していく物語の展開は、まさにランボーの在り方そのものだと言えよう。ランボーの溢れんばかりの才能に廻りの者たちは惹き付けられていく訳であるが、見目麗しいルックスと相まって、自らの欲望に忠実に疾駆する姿にほだされていく様は、ある種の喜劇さを呈していく。

 片や、繊細な大胆無敵さを発揮するランボーを受けて立つのがヴェルレーヌである。生瀬勝久演じるヴェルレーヌは、一時たりともランボーを手離すことが出来ない呪縛に絡め取られているのだが、沸々と湧き出る嫉妬や羨望が時に暴発する様も生々しい。ランボーがヴェルレーヌの生き様の痛いところを突いてくるのだ。時に殺傷沙汰になる展開も、芸術家の追い詰められていく真情と、世間からひた隠しにしなければならなかった男色の関係性とが、日陰で生き永らえる男たちの諦観を感じさせ、哀切さえが漂ってくる気がする。

 ヴェルレーヌの妻マチルドを中越典子が演じるが、どう考えても若き詩人と友情以上の関係性で繋がっている夫と決して離別しようとしない性向には目を見張る。そう易々と離縁が出来ない時代背景もあろうが、音楽を愛でるブルジョア家庭に育った彼女は、芸術至上の意識が身に染み込んでいるのではないだろうか。また、自分が棄てられるというプライドが赦さないという意識もあるのかもしれない。蔑まれても逃避することなく、追い求める感情のベクトルの強度が、奇妙な三角関係を繊細に彩っていく。

 出番は少ないながらも、マチルドの両親を加茂さくらと辻萬長が演じ、ブルジョア家庭の意気を感じさせ見事である。物語後半に登場する老いたヴェルレーヌのパートナー・ウージェニー演じる立石涼子の下層階級の下卑た女の包容力が心地良い。

 会話劇故、その背景となる舞台美術のリアルさと美しさは作品の重要な役割を担うことになる。ブルジョア家庭の豪奢な設え、鏡が多用されたパリのカフェのビロードの手触りのような質感、ロンドンのアパートの鄙びた雰囲気、泰西名画のような森林風景など、箱庭のような精緻な背景が独特な世界観を醸し出し、物語を背景から押し支えていく。

 時代を大急ぎで駆け抜けた詩人たちの残り香を堪能しつつ、闘い、罵倒し合い、追い詰められながらも濃厚な関係性を維持した人々の、ギリギリに生き抜いた生き様に、乾ききった心がいつしかエンパワーされているのに気付くことになる。強烈なパワーは確実に連鎖していくのだということを確信し得る、稀有な体験を享受出来る精緻な室内劇であった。


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