劇評324 

実力派俳優の台詞術に酔える室内劇として見応えあり。

 
 
「フェードル」

2017年4月8日(土) 曇り
シアターコクーン
18時開演

作:ジャン・ラシーヌ
翻訳:岩切正一郎
演出:栗山民也

出演:大竹しのぶ、平岳大、門脇麦、
谷田歩、斉藤まりえ、藤井咲有里、
キムラ緑子、今井清隆


場 : 劇場内に入ると既に美術が設えられている光景が見えています。石を切り裂いて作った天高のある洞窟のような雰囲気とでも言ったらいいでしょうか。舞台上には深紅のベルベットが施された椅子が据えられています。

人 : 満席です。年齢層はやや高めでしょうか。男女比は半々くらい。演劇を見慣れた風の方が多い気がします。

 大竹しのぶを始めとする、旬の実力派俳優が居並ぶキャスティングに、観劇する前から惹起してしまう、ラシーヌの有名戯曲は、舌戦の台詞劇だ。

 本作は台詞を堪能する芝居だ。スペクタクルな演出的な要素は一切排され、ラシーヌの戯曲世界を余すところなく再現しようと腐心する。栗山民也の演出は、台詞を最大限に活かし、その中から生きとし生ける生身の人間の業を掴み出していく。

 大竹しのぶ演じるフェードルは神の血を引く王妃であるが、継子であるイッポリットに横恋慕するという人間的感情が発端となり、周りの者全てを巻き込む悲劇へと雪崩落ちていく。その無垢感、特権的意識、信じるものを曲げない強靭な精神を持って、フェードルは迷うことなく突っ走る。人間でありながら、人間を超越した在り方に説得力を持たせるのは、流石、大竹しのぶである。

 フェードルの愛を受けるイッポリットは平岳大が担っていく。偉丈夫な中にも繊細な感情が染み出て、市井の人間の苦悩を滲み出していく。大柄な体格と、フェードルに翻弄される小心な心持ちとのギャップが、少々可笑し味を醸し出す効果を発していく。

 フェードルの乳母エノーヌを演じるのはキムラ緑子であるが、大竹しのぶと実年齢の差は左程ないと思われる。乳母というより侍女という関係性にも見える。多分これまでの人生は、フェードルのために生きてきたのであることが彷彿とさせられる献身的な態度が印象的だ。フェードルとは一心同体的な感じさえして、結果、フェードルが突き進む道を助長してしまう女の弱さが憐れに感じる。

 歌を封じた今井清隆が迫力ある存在感を見せつける。死したと思われていたフェードルの夫君であるアテネ王テゼが、まるで甦ったかのように登場するシーンは緊張感に満ち満ちていた。百戦錬磨の俳優陣が居並ぶ中において、威厳を湛えた存在感は、アテネ王というポジションに君臨する男という役どころに説得力を与えていく。

 門脇麦はアテネ王テゼに反逆した一族の娘で、囚われの身であるアリシーを演じていく。どういう経緯を経たためか、フェードルが恋するイッポリットと両想いの仲になっている。まるで、ロミオとジュリエットの様な、許されない恋である。門脇麦の若さが溌剌とした気を発し、心に葛藤と抱えながらも純愛へと突き進むパワーが放熱されていく。

 イッポリットの養育係テラメーヌを谷田歩が演じていく。養育係とはいえ、平岳大との
年齢差はほぼないため、ハムレットとホレーショにも似た関係性の様にも見えてくる。フェードルと乳母エノーヌにも酷似したこの揺るぎない信頼感。近しい者同士がお互いの心根を照射し合うことで、本音が浮き彫りになるという構図が面白い。

 物語の顛末は、中心に聳え立つフェードルの強烈な情念に引き摺られ、全ての者が悲劇の結末を迎えていく。西洋の個人主義も、大きな運命の流転に巻き込まれてしまうとひとたまりもない。神と対峙する人間の葛藤が哀しみを誘っていく。

 実力派俳優の台詞術に酔える室内劇として見応えがある。しかし、台詞に寄ることで生じる文学的な香りは、観客に対して、ある種、高尚なものを提示しているのだという創り手の視点を感じたのは私だけであろうか。しかし、その域を、大竹しのぶは軽々と超越し、作品に突破口を開いていく。生々しい断末魔の叫び声が、今も、耳に残り離れることはない。


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