劇評362 

時世に流されてしまう人間の弱さを提示し秀逸。

 
 
「民衆の敵」

2018年12月1日(土)晴れ
シアターコクーン 17時30分開演

作:ヘンリック・イプセン
翻訳:広田敦郎
演出:ジョナサ・マンビィ
美術・衣装:ポール・ウィルス
音楽:かみむら周平
振付:黒田育世

出演:堤真一、安蘭けい、谷原章介、
大西礼芳、赤楚衛二、外山誠二、
大鷹明良、木場勝己、段田安則 他

場 : 入場する際、何故か長蛇の列が出来ていました。17時30分開演で、上演2時間15分休憩無しは有難い。帰途の時間を気にせずに済みます。劇場内に入ると、舞台には黒い幕が下されておりステージを伺うことは出来ません。

人 : ほぼ満席です。比較的、やや年齢層は高めでしょうか。演劇を観慣れた感のある方々が多い感じがします。開演まで、静かに待たれています。

 ヘンリック・イプセンが著した「民衆の敵」は1882年と今から130年以上も前の時代設定なのであるが、今、観ても何ら古びることのないその内容に驚愕すら覚えてしまう。事実よりも個人的な意見が影響力を持つ“ポスト・トゥルース”の時代、生きとし生ける人間たちを覆う政治的・社会的な閉塞感は、世紀を超えて2018年の観客たちの意識にシンクロする。

 舞台は温泉が発見されたノルウェー南部の町。町中が観光誘致の期待に湧いている中、温泉が汚染されている事実を医師が突き止めてしまう。その要因は妻の父が経営する工場の廃液であることが分かってくる。医師は兄である市長に進言するが、公表しないよう説得される。

 かなり深刻な社会派ドラマの様相を帯びているが、イプセンの視点は一段高い場所から人間たちが右往左往する様を見つめていくため、悲劇を超えた喜劇的なニュアンスが浮かび上がってくる。物語を善悪という物差しだけでは測らない、いや測ることが出来ない人間社会の矛盾を突いて面白い。その振れ幅をジョナサ・マンビィの演出、堤真一を始めとする役者陣が的確に捉え表現していく。物語に膨らみが生まれてくる。

 医師は町の新聞社にこの事実を伝え、編集長や記者は公表しようと奔走するが、町の発展の機会を損ねるという市長の言い分に平伏してしまう。長いものに巻かれた訳だ。市長の様子を伺い忖度するマスコミの姿勢を見て、あれ、これ、現代の話?と思ってしまう位の違和感の無さに自嘲気味な笑いが零れてくる。

 民衆の描き方も秀逸だ。ギリシア悲劇のコロスの様な存在の民衆であるが、黒田育世の振付が民衆たちの思いを分かりやすい所作で描いていく。この民衆であるが、医師と対立する立場として描かれていく。この風評に傾斜する民衆の浅薄さは、観ていて何とも胸に痛い。この民衆たちに医師は「民衆の敵」と呼ばれることになる。

 配管でステージ周囲を覆ったポール・ウィルスの美術も印象的だ。水の存在を間接的に感じさせる表現が、観る者の創造力を喚起させる効果を発していく。

 医師を演じる堤真一が、人間の様々な側面を表出させ楽しませてくれる。隠蔽をディスクロージャーする実直さ、それを声高に謳うある種の正義感の突っ走り具合など、緩急織り交ぜながら重層的な医師像を構築していく。

 市長の段田安則の存在が作品に強靭な安定感を付与している。市長は市長なりの信念があるのだということをぶれずに演じていくため、医師との対立構造が実にスリリングなのだ。

 コロコロと立場を翻す編集長役を、谷原章介はカリカチュアライズされた演技で挑んでいく。深刻な顛末をフットワーク軽く潜り抜けていくため、可笑しみさえ感じていく。

 木場勝己が人間が本来持ち得る良心を、代表して担っているかのようだ。医師を擁護し続ける立場を決して変えることがない。正義感溢れる言動に説得力を持たせ作品に希望を与えていく存在として揺るぎない。

 多数派が正しいわけではないのだと分かってはいるのだが、実際その渦中に居ると、ついつい時世に流されてしまう人間の弱さを提示し秀逸である。どの立場や意見に寄り過ぎることのないバランスを保ちながら生きていきたいと切に願う自分に気付かされた作品でもあった。


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