劇評36 

人としての生き方を突きつけられる弩級の集団劇。

「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」







2005年2月6日(日)晴れ
シアターコクーン 午後2時開演

作:清水邦夫 
演出:蜷川幸雄 
出演:堤真一、木村佳乃、段田安則、中嶋朋子、
    高橋洋
場 : 紗幕で覆われたステージの背景には、高所にまで続く階段が設えてある。正面だけでなく上下にも階段は拡がっている。その急勾配の階段を行き来しながら演じる役者たちの運動量はもの凄いものであろう。
人 : 満席。演劇好きの方々が集ったというところか。またまた、パンフレットの話で恐縮であるが、入場口の左側にパンフレット売り場があるのだが、この場所にあると、入場者と導線がかち合ってしまい、少々混雑気味の入口となってしまう。ロビー中央の柱周りでの販売の方が良いのではという気がする。

 集団の崩壊を描いた連合赤軍などを彷彿とさせる清水戯曲を、当時の匂いを残しつつ普遍的な出来事に昇華させ得た力作である。





 中嶋朋子が紗幕の上で弄ばれながら登場するオープニングから、戯曲の強靭さと拮抗すべく果敢にあらゆる仕掛けを繰り出す演出のパワーに圧倒させられた。浅間山荘事件の時、巨大な鉄の玉が家屋にめり込み家を崩壊させる強烈な映像がアタマの片隅に今でも残像のように残っているが、オープニング、紗幕の向こうに透けて見えるのは壁を壊す大きな鉄の玉であり、今作が、その時代から現代に向けて解決出来なかった問題を問い返してきているかのような発破の掛けられ方である。




 自分が自分だと分からない主人公・将門。何とも滑稽な設定である。側近たちはそんな将門に振り回され、右往左往している。長が狂ったといえども簡単に組織を転覆出来ぬは、かつての長の威光の残り香か、目に見えぬオーラがその集団を未だ覆っているのか、理由はあれども、はっきりと明言出来るものもおらず、静かに潜行して策略が張り巡らされていく。




 組織、集団というものの奇妙な歪みを描いて秀悦である。何故、ひとびとは、堂々と新しい長に取って変わろうとしないのか、いや、出来ないのか。それは、幾度にも渡って繰り広げられる、影武者選びという行為に表出しているのではないか。いざ、長になったときに果たして皆に慕われるのかについて、はっきり言って自信が持てないのだ。だから、誰かに擁立させられたいのだ。かつて、「自分のレーゾンデートールは他者によってのみ確立させられるのだ。」と記した作家がいたが、他人がいるからこそ自分のアイデンティティのポジショニングがはっきりと保てるのだ。例えば、王が暗殺されたその場で、後継者が即「私が次の王である。」と宣言出来るのは、そういう暗黙の了解が既にあったからなのだ。
また、そう言い切らないと自分が殺されてしまうのだ。




 木村佳乃演じる将門の妻・桔梗の前は、将門に対して更に愛憎というものが絡まってくる。また、今の自分の位置を保つためにはどうしたらいいかの策略を巡らしてもいる。表情に感情を載せない演じ振りは堂々としたものがあるが、ふとした際に零れてしまう本心などが垣間見られるような振幅を持ち得たとき、更に、女優としてステップアップするであろう。クライマックスの殺傷シーンも説得性を増すというものだ。段田安則は、生き延びることを主眼にしながらも、小ざかしく立ち回る本心の見えない三郎を演じて作品に深みを与えていた。五郎を演じる高橋洋のストレートな演技は全体構造の中において特にスピード感を感じさせてくれた。中嶋朋子のゆき女は、女の強さ・怖さを体現し得ていた。堤真一は、そんな、くっきりと色分けされた登場人物の中にあって、飄々と佇む狂気の将軍を嬉々として演じてみせた。




 火、雪、更には上空から物凄い轟音と共に地に降り掛かる無数の石など、自然をモチーフとした視覚的な効果は観客の度肝を抜いた。また、叫びにも聞こえる韓国の音楽が、作品の通低音として流れる、人の「情念」を浮き立たせ強烈である。いつの世にも通じる人の哀しさに彩られた集団劇は、パワーあるものが残存するという動物界の掟にも似て、贖いようのない運命を甘受する日々の単調さへと回帰していった。人は「自分」を生きるしか術はないのである。