劇評38 

感情表現に時代の格差があることを発見する、異種混合格闘技戦

「KITCHEN」





2005年4月6日(水)晴れ
シアターコクーン 午後7時開演

作:アーノルド・ウェスカー
改訳:小田島雄志
演出:蜷川幸雄
出演:成宮寛貴、勝地涼、高橋洋、須賀貴匡、
    長谷川博巳、杉田かおる、鴻上尚史、
    津嘉山正種、品川徹
場 : シアターコクーンを改造。通常客席がある前列を数列潰し厨房のセットを組んだ。通常舞台上となる所にも客席があり役者は二方向から見られることとなる。但し、舞台上はぐるりと厨房設備が囲むため、1階席の特に前の席の方などは、向こう側で演じられているシーンが見え難いと思う。
人 : 満席。ホリプロ会長、社長の姿も。しかし、やはり成宮くんを始めとする男優陣のファンであろう女性の姿が目立つ。蜷川氏が客席後方のオペレーションブースで舞台の進行に睨みをきかせていた。

 まさに群像劇! 33人の役者が一同に会し動き回る様相は壮観。ランチが始まり厨房の慌しさが少しずつ沸騰し始め、オーダーを入れるウエイトレスの声とそれを受けるコックたちの掛け声と調理器具が立てる音が混然としピークを迎える前半の閉めのシーンは、蜷川幸雄が奏でるオーケストラそのものであり、狂いのない精密なバランスの上に成り立ったアンサンブルはまさに圧巻である。




 アンサンブルとしては成立してはいるが、俳優の個性の噴出度具合が低温度だ。特に、成宮寛貴は、劇展開上いかに怒れる若者になろうとしても、身体の奥底にある苛立ちや諦めの境地に対する自覚と、それをいかに表出させようとするかという表現へのこだわりが薄いのか、一枚岩の表層的な怒りの表現に留まっている。深くなくても良い。上手く演じようとしなくても良いのだ。ただ、何かやりきれない思いの爆発の瞬間が見ることが出来れば良かったのだが、気持ちの何処かで自分で自分にセーブをかけている成宮寛貴が見え隠れしてしまうのだ。何だかカウンセリングみたいだが…。ただ、誰よりもキラキラした溌剌さを振り撒いていたことは間違いない。旬、ということか。




 勝地涼もさらりとした印象だ。ドイツ語、ギターなどスキルを必要とする役柄であるが、イギリスで働くドイツ人という肝が空白だ。人物の背景が希薄なのだ。そうすると、その人物そのものが見えてこなくなってしまう。




 そもそもこの戯曲を選んだ時点で、このヨーロッパにおける人種間の軋轢というものを、現在の日本人が見た目も含めてどこまで伝えられるかということは、課題であったはずだ。しかし、残念ながらその課題は解決出来なかったように思う。清潔感ある細身のイケメン男優たちがメインの役どころを始め脇にも多く、役柄以前に役者としての個性がまだ確立されていないこういう布陣では、そもそも難しい挑戦であったには違いない。かえって台詞もない石井智也などがその体格で目立ってしまう。




 相手の主張を身体の全面で受け取り、返していくだけではなく、例えば、斜に構えてまともに相手を見なかったり、また、ある時は強烈に自己主張するなど、その表現の仕方に幅を持たせた緩急自在な広がりある演技を、高橋洋などにはもっと緻密に積み上げていって欲しかった。須賀貴匡は素直な資質が前面に出て好感が持てる誠実さが滲み出るが、大勢の中でもすっと目立つ個性を今後どう血肉としていくかに期待したい。特に今回はクラスが下層である人間の、卑屈さなのか、無我の境地なのか、あっけらかんとしたオープンさなのか、そういった戯曲から読み取れるその役柄の位置から鑑みる心的状態などが、人物形成のエッセンスとして匂ってくると、その人物にもっと深みが出たであろう。




 その点、津嘉山正種と品川徹は登場するだけで空気が変わる。背景が確実に見えてくる。鴻上尚史はなかなか個性的で面白いが、杉田かおるはバラエティなどで見るぶっちゃけたストレートな面白さに欠け、表面的な演技の次元で留まっていたように思う。




 戯曲の書かれた60年代の虚無感と現在の21世紀とでは、その怒りの矛先や見え難い目標などの質が、違ってきているのだと確信した。だから、役者の根底に戯曲が望むべき資質がもはや存在していないのだ。その頃あった「ある感情」は、今の日本の若者が生きていくためには、多分あまり必要でないことなのだ。最後のシーンの品川徹の叫びに、その全ての矛盾を包括させたのであろうか。あるいは、そのことに演出は気付かず、普遍的な物語としてこの戯曲と取り組んだのであろうか。そこがはっきりとしないまま幕は下りてしまった。