劇評42 

物事の奥底に潜む真実は、目に見えるとは限らない。

「近代能楽集 〜 卒塔婆小町・弱法師」







2005年6月5日(日)晴れ
彩の国さいたま芸術劇場 午後2時開演

作:三島由紀夫
演出:蜷川幸雄
出演:(卒塔婆小町)壌晴彦、高橋洋
   (弱法師)藤原竜也、夏木マリ
場 : 緞帳が下りている。両演目共、ゆっくり音楽が流れ始めると暗転になり溶明すると舞台が始まるという流れ。幕開きの感じを揃え、2演目同時公演を演出的に足並みを揃えた。
人 : 何席か空席があるが、ほぼ満席。やはり8割方は女性。多分、藤原くんファンの方々が多い気がする。開演直前に蜷川氏が助手と共に、下手一番後方に座っていた。

 3回目の「近代能楽集」である。固唾を呑んだ前2回の感動を期待し席に着いた。




 「卒塔婆小町」は、震えるようなパバーヌの調べに乗り、プロセニアム前面に貼り付くようにビッシリと生えた椿の樹木から、かなり連続してポタポタとその椿の花を天空より落下させる。その椿は落ちる時に音がするのであるが、その音は、三島の美しい言葉のレトリックの迷宮に迷い込ませないための一種の異化効果となって、観客に冷静さを取り戻させてくれる。




 舞台中央を囲むように設えた白いベンチに座る恋人たちが抱き合う夜の公園に、壌晴彦演じる卒塔婆小町が現れる。シケもくを拾い、ベンチから恋人たちを追い出し、99歳の小町は語り始める。昔、私は、美しかった、のだと。そこに、青年が迷い込んでくる。彼はそんな話に耳を傾けつつも相槌は打たない。しかし、詩人である彼にはイマジネーションというものが感覚的に備わっていた。彼は老婆の話に吸い込まれていく。




 鹿鳴館時代に小町が甦るシーンは圧巻だ。ボロボロの小汚い服装はそのままに、髪も白髪、顔も皺だらけなのだが、ワルツの音色が奏でられると、壌晴彦の背筋がすこしずつ伸び始め、顔も正面を向きシャンとして緩やかな曲線を描きながら舞い踊る姿は、もはや、老婆ではない。何故か、美しい、と思えてしまうのだ。声の張りも勿論違う。ふっと、全身全霊という言葉を思い出していた。全身で表現するその役者の内側にはその役の魂までもが存在しているのだ! 己の魂を役にぶつけて芝居をしているのだ。





 詩人は幻にはまり現実に戻って来れなくなって、私に恋すると皆死ぬの、という小町の予言通り、死に至ってしまう。今見えていることが全てなのではない。強烈な思いが時には人を狂わせてしまうこともあるのだ。三島のメッセージは、壌晴彦という役者の魂と、蜷川幸雄の美醜を混在させた強烈な場作りを得て、ひたひたと心の内側に侵食してくる。




 「弱法師」である。藤原竜也から何かが消えていた。確かに、声のバリエーションは増え、緩急自在に台詞を操るテクニックは進化したのかもしれない。しかし、ポキンと折れてしまいそうな未熟さが無くなってしまっていたのだ。故に、少年の恐怖と我と虚勢と孤独が、堂々としたものになってしまっているのだ。加えて、声を張ることが多いのも興を削がれる一因だ。そこまで、何度も、叫ばなくても良いのではと感じてしまう。愛されているかが不安な少年が、愛されていることを利用する大人へと、まるで藤原竜也自身が成長したかのように、役自身にもそれが反映されてしまったということか。




 夏木マリの妖艶さは特筆すべきだ。黒髪をひっつめ粋に着物を着こなす級子は、育ちの良さからも、美貌の持ち主であることからも、俊徳に一歩も引けを取らず、堂々と渡り合う。また、夏木マリのハッキリとした顔立ちもあって、主人公の無垢を否定する悪女にも見え、泣き叫ぶ俊徳を一喝するシーンなどは、少年のパワーに対し、女の魔性で真っ向勝負に挑んでいる。




 最後の演出は俊徳の孤独をこの上なく増幅させると同時に、三島にも思いを馳せる仕掛けが秀悦である。それまで、裁判所の1室であったそのギャップが一層驚きを掻き起こすが、この台本には書かれていない演出は、文学として完全に成立している三島戯曲に対する蜷川の反逆にも思え、格好良い大人のアジテーションとしての魅力も感じてしまった。




 両作共、可視的なるものを否定し、物事の本質や真実を掬い出そうとする点において共通しているかもしれない。2005年の今だからこそ、何十年もの時を経て現代を予告していたかのようなこのメッセージを、個々が問い直さなければならないのではないだろうか。三島はやはり天才であった。