劇評67 

ナマナマしいが、荒くれた心の中のピュアなエアポケットは、清々しかった。

「フール フォア ラブ」






2007年2月12日(月)晴れ
PARCO劇場 午後2時開演

作:サム・シェパード
演出:行定勲
出演:香川照之、寺島しのぶ、
甲本雅裕、大谷亮介
場 : PARCOのエレベーターが1基改築中であり、1階から9階の劇場に上がるまでに7〜8分掛かった。劇場内は開場時から緞帳は上がっており、舞台上には、うっすらとモーテルの1室らしいセットが組まれているのが分かる。シンプルなセットである。
人 : エントランスに富司純子さんがいらした。お綺麗なこと! 客席は満席。当日券も完売らしい。観客の年齢層はやや高めかな。祝日のマチネということもあり、ゆるーい雰囲気が漂っている気がする。

 役者が持つスピリットやエネルギーをギリギリまで絞り出すことに注力した行定監督の演出は、そのシンプルなアプローチにて、サム・シェパードの戯曲の真髄を呼び起こすことに成功した。人の心の彷徨いとでも言うべきテーマを掲げるサム・シェパード独特の世界観が、自然と浮かび上がってくるのだ。また、物語の背景にある茫漠たる砂漠の空虚感をも取り入れ、更に人の心の深遠へと忍び込んでいく。




 舞台は、あるモーテルの1室で展開される。中央にベッド。上手には外に通じるドア。下手にはバスルームに通じるドア。舞台奥の壁には、窓が設えてある。そして、その奥の壁の上方の位置に、ジオラマのようなミニチュアの荒野のセットが載っている。物語の内容とシンクロする度に、その上方の部分に照明が入り照らされるのだが、どうも見た目に違和感があるのだ。部屋のセットの壁の上にピッタリくっ付くように景色がはめ込まれているのだ。これが、書割などであれば舞台のお約束であり、その風景が遠くにあるように見えれば納得いくのであるが、リアルに作り込まれた縮小版のジオラマとなると話は違う。物語の心象風景であることは分かるのだが、物理的な可笑しさを感じてしまったのは、私だけであろうか? 




 異母兄妹の禁断の愛、が物語の軸である。その愛するがゆえのぶつかり合いや強烈な心の希求の振り子が、お互いがひとことひとこと交わす毎に大きく揺れ動く。ドアを開け外に出たり、あるいはバスルームから出てきたりと、くっ付いたり離れたり舞台上を行き来するのだが、そのドアが閉まる時に立てる効果音がとても大きく強烈である! 低いのだが切っ先鋭くもあり、お互いに向かう意識のベクトルを一切遮断するかのような怖さを感じさせる。また、ドアに打ち込まれる銃弾の音もショッキングであった。行定監督の演出的アクセントは、絶えず心を際立たせていくことに向かっていく。




 役者陣も素晴らしい。主人公の兄妹を演じるのは、香川照之と寺島しのぶ。粗野で横暴に見えるのだが、実はこの上なく繊細なカウボーイである兄。彼は、亡き父とリアルタイムで会話を交しながら、過去の思い出と今の心持の間を逡巡している。包容力ある大胆な荒くれ振りだが、しかと妹を受け止める冷静さも兼ね備え、香川照之の上手さに舌を巻く。寺島しのぶもテンションを下げる暇がないくらい、終始、感情を放出している。しかし、兄を思う気持ちが募るいじらしさが可愛くも可笑しくも見え、時折、フッと笑いを誘ったりもする。その緩急自在の感情のコントロールで、観客の気持ちを翻弄していく。




 兄妹の父を大谷亮介が演じるが、ここに存在しているのだが、実在はしていないであろう人物を巧みに演じ秀逸である。変に突出することは全体のバランスを崩し兼ねない、微妙なバランスを要求される役どころであろうが、モノの質を変化させるが如く、役柄の在り方自体の質を転換させ、現実世界と乖離した存在感を際立たせていた。妹の友人を甲本雅裕が演じるが、兄とは全く真逆の無害そうな性質がかえって妹を引き付けたのか、もしくは、兄に対する嫌がらせなのか、この童貞の青年の存在が、感情渦巻くこの物語の中において、唯一無垢な救いの場所となり、甲本雅裕がその意を汲み的確に演じている。




 窓越しに映し出されるヘッドライトの光がリアルで美しい。この溶けるような光の演出は、映像的だなと思った。光は、映像とリンクするところがあるのであろうか。舞台人にはない、光、そして闇に対する繊細な思い入れ、光も闇も生きているのだという感性を、随所に感じることが出来た。古ぼけた砂漠の絵に、サッと刷毛で絵の具を載せたような感覚とでも言おうか、些細だがシカと刻印はされており、しかし、もう以前の状態には決して戻れない、その諦めとささやかな希望が染み出たエキスは、どうやら観客の心の内にもシンシンと降り積もってくるようなのだ。