劇評72 

日本が誇るエンタテイメント快作。

「薮原検校」






2007年5月12日(土)晴れ
シアターコクーン 午後6時開演

作:井上ひさし 演出:蜷川幸雄
音楽:宇崎竜童 ギター演奏:赤崎郁洋
出演:古田新太、田中裕子、段田安則、
   六平直政、梅沢昌代、山本龍二、
   神保共子、松田洋治、景山仁美、壌晴彦
場 : アイドルの出ない演目時のコクーンのロビーは、整然としている。観客はロビーで溜まることなく、すみやかに席へとついていく。会場に入ると、舞台上には、3方を木の高い壁に囲まれたセットが設えてある。
人 : 満席。立ち見の方もちらほらと。全体的に年齢層は高め。チケットは即日完売モードではなかったので、年配の方々も手に入れることが出来たのであろうか。

 痛快な快作だ。一介の座頭が、殺しと金で盲人社会の階級をドンドンと上りつめるが、最高位である検校の位を手に入れる寸前のところで自滅していってしまう。悪漢モノではあるのだが、人物の描き方は、階級 を上っていくことの優越や快感というよりも、底辺を何とか脱出したいがためにあがく市井の人々の苦しみや希望に焦点が当てられおり、猥褻や残酷を血肉にして生きてきた人々の、拭い切れない刹那さが、哀れを誘う。




 舞台は開始のベルの予兆もなく、いきなり暗転するところから始まる。暗闇の中では、むせび泣くギターの旋律だけが演奏されており、感覚はその一点に集中することとなる。しばらくは漆黒のままである。観客をいきなり盲人の世界へと引き摺り込む蜷川演出の導入は成功であった。しばらくしてゆるやかに舞台上にスポットが投げ掛けられると、そこに壌晴彦演じる語り手が現れ、物語が綴られていくことになる。




 朗々として相変わらず見事な語り口の壌晴彦であるが、この語り手の台詞、もの凄い膨大な量である。これでもかと事の顛末の仔細を語って聞かせてくれる。いや、語り手にたがわず、登場人物は皆、饒舌でストレートに突っ走り、ひとりとしてオブラートに包んだような物言いをする者はいない。ひとりの役者が何役もの人物を演じるという濃密さも手伝い、この過剰なまでの言葉の洪水に、人間の生きる力の源泉を見る気がした。好悪をないまぜにしながらも前へ前へと生きていく本能のようなものがあぶり出されてくるのだ。江戸中期という時代の社会構造を雛形に、最下層の人間たちの爆発寸前のパワーを内包させた骨太な戯曲の見事さに驚嘆した。




 舞台上では、幾重にも綱が重なるなどして、場面場面で効果的に活かされていた。綱の使用は戯曲の指定であるが、言わずもがな、盲人が抑圧されている状況や、あるいは頼りになる指針といった、観る者に様々な解釈を与えてくれる大きな要素として効果を上げていた。




 宇崎竜童の音楽も作品に厚みを加えていた。異化効果的に、随所に歌唱が入るミュージカル形式であるのだが、心情を歌い上げる欧米のそれと違い、社会状況を揶揄したり笑い飛ばしたりする活力に満ちていて、ギター1本で展開される演奏と見事に拮抗し、物語に普遍性を与える効果を上げていたと思う。また、何故か頭から離れないメロディーを作る上げる才能には脱帽。面目躍如である。




 古田新太が、杉の市という人物の中にあらゆる多面的な側面を見出していく。エロさ、残忍さ、ふてぶてしさ、優しさなど様々な感情を、どこか一歩引いた視点でユーモアたっぷりに嬉々として楽しんで演じていて、ヒーローにも極悪人にもならない、小悪党を造型して作品を牽引していく。田中裕子の妖艶さは舞台に華を添え、段田安則も何役かを演じるが、杉の市の父である魚売りの七兵衛の悪びれない残忍さや、塙保己市の品性ある諭しが印象的だ。六平直政や山本龍二は殺したり殺されたり、梅沢昌代が流転する母に哀感を込め、神保共子もクルクルと役回りを変えていくが、何と言っても犬の鳴き声が最高だ! 壌晴彦は底辺からこの物語をしっかりと支えていてドッシリとした安定感があった。




 ホンと役者が揃うと、間違いないものが出来上がるのだという見本のような作品であった。そして、演出が蜷川幸雄である。随所に見せ場を忍び込ませながらも、各人の才能を見事に搾り出して見せた。まさに、日本が誇るエンタテイメント に仕上がった。