劇評85 

旬の役者を得て、名作「キル」が甦った。

「キル」




2007年12月8日(土)晴れ
シアターコクーン 午後7時開演

作・演出・出演:野田秀樹
出演:妻夫木聡、広末涼子、勝村政信、
   高田聖子、山田まりや、村岡希美、
   市川しんぺー、中山祐一朗、
   小林勝也、高橋惠子
場 : 入場する際に特に並ぶこともなくスムースである。ロビーではパンフレットのコーナーにも物販のコーナーにも並ぶ人はいない。カフェも閑散としている。芝居を見慣れた人が多いということか。
人 : 満席。2階席には立見の方もいらっしゃる。何故か、若干だが席が空いているところもある。来れなかったのか、チケット屋さんが売りさばけなかったのか、それにしても惜しいことである。

 再々演の名作「キル」は、妻夫木聡、広末涼子という旬なスターを迎え、新たな魅力ある世界を創り出した。野田秀樹は時折キャストに旬の人気者を登用することがあるが、例え演劇畑ではない人であっても、旬の人にだけしか醸し出せない空気感で、百戦錬磨のベテラン勢とバトルし拮抗させてしまうところが毎回見事である。今回も大いに楽しませてもらった。そう言えば、妻夫木聡は2001年PARCOプロデュースの「ラブ・レターズ」に出演してはいるが、まあ、朗読劇だったので今回は初舞台ということになるのであろう。「20世紀ノスタルジア」で主演していたにも関わらず、「秘密」で本格初主演とうたわれた広末涼子のケースが思い起こされる。




 妻夫木聡演じるテムジンは随所に幼さを残すところが特徴だ。背伸びしない等身大の視点で役柄を自らに引き寄せたことが要因であろうか。ドンドンと勢力を拡大し伸していく様も、純粋に征服欲に駆られているという、そのストレートな欲望の表し方に幼い心根が見え隠れする。豪腕さと繊細さがうまく融合されていて、そのバランスの危うさがまた魅力となっている。




 広末涼子はか細く可憐で美しいが、台詞廻しが明晰でしっかりしており安定感がある。特に母になった後の夫テムジンに対する態度には、恋する少女だった前半とは打って変わって辛辣な感情が浮かび上がってくるが、そのクルクルと変化する様が野田戯曲の素早いテンポとシンクロし、緩急自在に様々な手法を表現出来るという実力を垣間見させてくれた。そういった点で言うと、妻夫木聡は愚直なまでにストレートで、戯曲に追随していこうというクイックな変化ではなく、戯曲下の水脈を掘り当てるかのような洞察力で、物語を牽引していく。主演ふたりの資質が異なるため、物語の世界観が更に広がっていく。




 「キル」の世界は、初演より10数年経った今でも全く褪せることのない面白さとメッセージ性を含んでいる。今でも世界中で決して止むことのない国盗り合戦を、ファッションというメタファーに置き換えていく。また、9・11以降特に顕著であるが、様々なアーティストが取り上げているテーマ「暴力の連鎖」が、既に大きなテーマとして掲げられている。そして、親子の問題。連綿と続く父と子、母と子の愛と確執。そしてその結果が招く、悲劇。昨今、マスコミを賑わす様々な事件の要素が、これでもかと詰め込まれているのだ。




 再々見した今回、野田秀樹のその先見の明に脱帽した後、いや、野田秀樹は何かを予見しようとした訳ではなく、人間にとっての普遍的なことを突き詰めた結果の現われなのではないかという思いがしてきた。学習効果などなく、何度も同じような過ちを起こしてしまう人間の愚かさ。そこが人間にとっての悪いところでもあり愛おしいところでもあるのだ。




 ラストもまた印象的だ。いろいろな困難を乗り越えた後、テムジンは様々な物語を紡ぎ出してきたミシンに横たわりこれまで展開されてきた物語を反芻する。これまでのこと全ては、もしかしたら、死ぬ間際に見た過去の出来事かもしれないし、生まれる前に見たこれからの自分が生きていく人生のような気もする。いつも変わらなかったのは、青い空だけだった、と。意識がフッと時空を超えたその瞬間に、フワァーっと布で覆われたステージは、舞台となったモンゴルの青空のように爽やかなブルーに染まっていった。儚い人間の人生を包み込むような優しさに満ちたその光景に、思わず圧倒されてしまう。叙事詩のダイナミックさを抱合しつつ、抒情詩の繊細を併せ持ったこのステージは、この上なく上質な大河小説を読み切った後のような、興奮と満足感を観る者に与えてくれた。