劇評9 


見得なき自然体ハムレットの全く新しい形象


「ハムレット」


2003年11月23日(日)晴れ
シアターコクーン 13時30分開演
演出:蜷川幸雄 
出演:藤原竜也、鈴木杏、井上芳雄、
   小栗旬、高橋惠子、西岡徳馬
場 : シアターコクーンを改造し客席中央に舞台を造作。
本来ならステージの場所にも、客席が作られている。
前半はステージをフェンスが囲む。後半はフェンスを取っ払った素舞台。
人 : 満席。立ち見の方も多い。やはり藤原竜也を始めとするスター目当ての
若い女の子が目立つ。

 むせび泣くジャズの調べが会場を覆うと一幕の始まりだ。そこは、イギリスではなく、ジャパネスク風でもなく、また、無国籍を意識した様式に走ることもない。今、日本の若い俳優が演じる「ハムレット」という物語を、今の私たちが目撃するという、あまりにもシンプルな設定だけが用意されている。蜷川演出はどんどん装飾を削ぎ落とし、戯曲の本質を掴み出すことに集中している。


 この際、今までのハムレットのイメージ=固定観念を取り外さなければ、今回の作品の本質を突くことは出来ないであろう。若すぎる、貫禄がないと言った感想は無意味であるということだ。藤原竜也演じるハムレットはハムレットを生きている。多分、彼自身がハムレットなのだ。この世界で一番有名な戯曲の世界に、演じるということを越えて、彼は存在してしまっているようだ。そこが、今まで演じられてきたハムレットと、決定的に違う点である。


 ハムレットは柔軟に動き叫ぶ。独白を聞かせた後、台詞の掛け合いにスッと戻る。仰業さや変なアクセントや見得がない分、ナチュラルな感情が際立ち、ハムレットの気持ちが立ち上がってくる。今までみたハムレットの中で、一番台詞が良く聞こえてきた作品である。

 鈴木杏のオフェーリアも素晴らしい。狂気のオフェーリアをこんなに納得してしまったのも初めてだ。狂気を演じようというのではなく、精神が壊れてしまったんだよね、ということが凄く伝わってくる。草花を手に狂喜して舞台に駆け出してくるシーンなどは、もう、オフェーリアの純真さゆえ涙せずにはいられない。この、俳優たちの柔軟な軽やかささは一体何なのだろう。


 ベテラン西岡徳馬と高橋惠子も人間的だ。特に高橋惠子のガートルートは、母である前に女であるのだという意識が明快で、夫の弟に嫁ぐことを納得させる色気が漂った。


 ラストは、今までの蜷川演出と全く違っていた。ハムレットが後継者にフォーティンブラスを指名し、フォーティンブラスは何故か死んだハムレットに口づけをし、良きことの伝承を受け継ぐかのように戴冠する。争いは無意味だというメッセージであろうか。ここでもまた、交錯した思いは純化され、ハムレットの意思が浮かび上がってくるのだ。また、敢えて今の世に問うアンチテーゼとも取れる余韻も残している。


 ストレートに見る者の心に突き刺さる、自然体の「ハムレット」として稀有な傑作である。