劇評103  

幾重にも重なる悲しみの意識の交錯が、ひとりの女の生き様へと集約される秀作。

「THE DIVER」






2008年10月2日(金)曇り
シアタートラム 午後8時開演

作・演出:野田秀樹
共同脚本:コリン・ティーバン
出演:野田秀樹、キャサリン・ハンター、
    グリン・プリチャード、ハリー・ゴストロウ
囃子:田中傳佐衛門
笛:福原友裕
場 : シアタートラムの会場構成はオーソドックスな作りであった。入口側手前が高く、雛壇のように段差のある客席が設らえてある。会場奥の下方にステージがある。既に、舞台には、2人掛けのソファが置いてある。舞台3方の壁は障子で作られている。可動式のようである。
人 : 年齢層は概ね30〜40代が中心か。50代の方が一人で来ていたりする率も高い。金曜は20時開演という時間帯もあるのだろうが、昔から野田芝居を見続けてきている人たちである気もする。男女比も半々くらい。いわゆるスタータレントが出てチケットが即日完売になる演目以外は、最近、年配の方の来場が多いように思う。チケットが取れれば、皆さん、観たいと思うプログラムはあるのですよね。


 放火殺人を犯した罪に問われている女、キャサリン・ハンターと、精神科医の野田秀樹を中心に物語は展開していくが、その女がその時々に囚われている「意識」が飄々と時空間を超越するため、女そのものとは全く別の重層的でねじれたいくつもの意識同士が瞬時に繋がり合い、周囲の者たちを巻き込んでいくことになる。女の名前はゆみ。英語で唱えられ初めて気が付いたのだが、ゆみって、YOU・MEなのだ。幾重にも意識が重なる母体として、これ程までに似つかわしいネーミングはあるまい。野田秀樹の細かな仕掛けに嬉々とする。



  捕えられ追い詰められた女がその重圧から逃れるために、いくつもの人格を作り上げていく多重人格ものとも見て取れるが、そんな表層的な仕掛けにはなっていない。女が様々な人格を作り上げていくのとは全く真逆のアプローチ。すなわち女の意識をトコトン突き詰めていったら、様々な意識の様相が表れてきた、ということである。女は自分が抱えている本来の意識を殺し、演じることで自分の身を守っているわけではなく、意識の淵辺を無意識にショート・トリップしているのである。そうすると、自然と本能に近い部分に底触することとなり、その欲望が焔となって立ち昇ってくるのである。その光景を、我々は目撃することとなるのだ。

 


  この現代の犯罪の奥底に潜む手立てを探る柱として、野田秀樹は、能の「海人」をモチーフとして選んだ。金春権守作、世阿弥改作とされる古典である。ある海人が、奪われた宝を海の中から奪還できたら息子を重用しようという約束を受け宝を奪うことが叶うが死を迎えてしまう。その母の秘密を知った、時の大臣・房前の物語。母である海人が思いを込めて海へと飛び込む様は、茫漠たる意識の中へとダイブする女の気持ちと連鎖する。
 


 更に、能の演目でもある「葵上」も絡んでくる。やるせない女の気持ちは、生霊となって光源氏の正妻・葵上を苦しめた六条御息所が宿した子を堕す悲しみの気持ちとリンクし、また光源氏が六条御息所の御邸に通う際に縁あって出会った愛人の夕顔にもなって愛された日々の思いをグッと意識の中に凍結させていく。幾重にも重なった女たちの悲しみが女の身体の中を駆け巡り渦巻いていく。




 キャサリン・ハンターはやはり凄かった! コロコロと目まぐるしく転回していく女の意識の憑依を、自らの肉体の中にグッと吸収させ、リアルに表現していく。キャサリン自体が、役柄の意識体を掴みきり強烈に牽引していくため、何人もの女たちが現れてきたとしても、決して破綻することがない。その柔軟なしなやかさが圧巻である。野田秀樹は精神科医としてキャサリン・ハンター演じる女と常に対峙するが、後半、葵上となって、キャサリンと女同士のバトルを繰り広げるシーンは辛い場面だが、面白い。男だから表現できる女のむごさを表出させ、クライマックスを迎えていく。



  田中傳佐衛門の囃子と福原友裕の笛はジャパネスクを彩るが、意識の通低音として女の気持ちと交錯しスリリングな効果を上げていく。

 


  ラスト、女は絞首刑となるのだが、そこで意識が放たれたのであろうか。海の中へと再度ダイブするのだ。そうすると、孕んだ子が自然と産まれ、そして海へと還っていく。女は息絶えるが赤子は息を吹き返す。自らの手で死に追いやった命が、最後の最後に再生した。女の命は、こうして新たに蘇ったのだ。