劇評107 

今、日本がすべきことを問う、破天荒で猥雑な傑作音楽劇。

「表裏源内蛙合戦」






2008年11月10日(月)晴れ
シアターコクーン 午後6時30分開演

作:井上ひさし
演出:蜷川幸雄
音楽:朝比奈尚行
出演:上川隆也、勝村政信、高岡早紀、
  豊原功補、篠原ともえ、高橋努、
  大石継太、立石凉子、六平直政
 
 
場 :  会場に入ると、シアターコクーンの素舞台の奥の方に、ぎっしりと衣装や小道具が並んでいるのが見えている。物凄い分量である。開場中はこの光景を見せているのだが、開演すると、舞台の背景はミラーとなるため、その準備されていたものは勿論見えなくなる。舞台奥の状態を想像しながら観ることになる。舞台上下の奥も、完全に黒幕で見えないようにはなっていないため、上演中も舞台袖から舞台奥に行き来する役者の姿が見えていたりして、そのラフな感じが、また、いい。
人 : 満席。年配の方が多いように感じる。男女も半々くらいといった感じかな。会場の雰囲気は、全体的に落ち着いた感じである。客席には、井上ひさし、小栗旬&山田優の姿などもあった。


 舞台は歌舞伎の口上風に始まる。パッと舞台が明るくなると、定式幕が下がっており、その幕が引かれると、ずらりと登場人物が居並び、口上を始めるのだ。面白可笑しい口上が笑いを誘い、舞台と観客が一体化していく。会場が暖かな雰囲気に温まったところで、物語はスタートする。



  井上ひさしが1970年にテアトルエコーの杮落とし公演のために書かれたこの「表裏源内蛙合戦」であるが、まずは、時を経ても全く色褪せることのないこの戯曲の揺ぎ無い「強さ」に驚かされた。「強さ」とは書き手の迷いのなさ、とでも言い換えられるであろうか。平賀源内を主軸にその生涯を描いていくのだが、全くもって、破天荒で、猥雑で、下ネタ満載。これでもかこれでもかと、現代の芸能と江戸中期の風俗を、惜しげもなく混沌としたままてんこ盛りの状態で供していく、その過剰さに、圧倒されてしまう。
 


  物語もひとつところに集約していくことがない。話は横道に逸れまくり、どんどんと逸脱していく。そこがまた面白い。その触れ幅の大きさが、逆に、作品世界を大きく見せることにも繋がり、登場人物たちのさまざまな物語は、市井の人々のエネルギーと相まって、爆発していくのである。

 


 蜷川演出は、戯曲の中にある世界を、1行たりともおろそかにすることなく、過剰なパワーに満ち溢れた戯曲とガッツリ対峙していく。組んずほぐれずの異種格闘技を見るかのようなデンジャラスな面白さに、目が釘付けになっていく。4時間10分の上演時間を全く飽きさせることなく、コミカルな要素も含む様々な芸能の手法を駆使し、物語を牽引していく。見事である。何役も掛け持ちし、また、多くの衣装変えがある役者たちが、大変そうにではなく、嬉々としてそれを演じていることで、その過剰さが、だんだんと、豊かさへと変質していくのも、見ものである。




  上川隆也がいい。こんなにいろいろな引き出しを持った役者だとは知らなかった。平賀源内という複雑怪奇な人物を演じるわけだが、産まれたばかりの赤ん坊の時から、獄中死するまでの52年間の生涯を、実に飄々と見せていく。上川隆也の軽い縦横無尽さが、コロコロと展開する物語の歯車とピッタリと合っていくのだ。アンサンブルの中心にいて魅力を発すると同時に、物語を吸引してもいくバランス感覚の良さが、キラリと光る。裏の平賀源内を演じるは、勝村政信。こちらもベテランだが、実際はこの裏の方が、平賀源内をコントロールしているのではないかという存在感があるのだが、やはり軽さを持って演じているため、表裏のバランスが良く、上川とのコンビネーションの相性もいい。この表裏が一体となって人体解剖する「腑分」のシーンは、可笑し味を持ちながらも、興味ある対象への執拗までの探究心が如実に噴出していて、白眉である。



  高岡早紀は「モロトフカクテル」以来の蜷川演出ですよね。美しく妖艶で華がある。豊原功補は硬質なコミカルさが表裏とは別の軽さを生み出し、篠原ともえはキャピキャピな路線を封じ、色気のある遊女を演じ新しい側面を見せてくれる。
 



  井上ひさしが提示する、メッセージは、今、このタイミングだからこそ、グッとくるものがある。もっと自国の「宝」を見つけ育てていかなければならないのではないのか、と。今、日本に住む我々が、この国に何を還元し、また、何を発信していくことができるのか。江戸中期に、必死になって奮闘した平賀源内の姿を描きながら、日本の未来に発破を掛けるその作り手たちの過剰なまでの心意気に、大いに刺激を受けた4時間10分であった。