劇評119 

役者を指導し切れていない演出家の力量に疑問を抱いた作品。

「桜姫」






2009年6月7日(日)晴れ
シアターコクーン 午後5時開演

作:四世鶴屋南北 
脚本:長塚圭史 
演出:串田和美
出演:秋山菜津子、大竹しのぶ、笹野高史、
    白井晃、中村勘三郎、古田新太
場 : 初日である。しかし、いたって平穏。会場に入ると通常1階の客席前面部分が数列つぶされ舞台端が突き出している。舞台上の上下には舞台側に向いたやや高めな位置に客席が設えられたセットが組まれている。芝居が始まるとその客席は内側へとゆっくりと動き、従来の客席側に向いて舞台後方に壁のような状態で立ち塞がる。コンサートホールで、オーケストラの向こうに客席がある感じに似ている。
人 : ほぼ満席。若干席が空いている。やはりチケット屋の残席がさばけなかったのかなとも思う。立ち見席は出ているのですからねえ。客層は様々ですね。やや年配の女性率が高いかなという感じです。1階客席中央数列はおばさま方が集結。勘三郎氏リザーブ席の様相が見てとれます。客席配分にもいろいろあるんでしょうね。1階中央の通路後の席に、音楽担当の伊藤ヨタロウ氏の姿が見られました。


  パーツが組みあがっていない途中段階のような出来栄えだ。初日ということもあるかもしれないが、役者もまだまだ手探りな状態で演じているような印象だ。演じながらも全体像が見えていない感じ。だから、これだけ一流の役者が揃っているにも関わらず、物語が大きなうねりにならず、奔流となって襲ってくる感情も立ち上ってこない。役者の出自はさまざまだが、その演技テイストの志向性にいかにもくっきりと相違があり、皆それぞれ奔放に演じていることが、また物語が拡散していくこととなる。演技をこういう方向性に持っていきたいのだという、演出家の意図が見えず、全てを役者に任せている感じなのだ。それぞれの役者が演じるにあたりポイントとしているところがバラバラなのだ。

 


 勘三郎は台詞にリズムとテンポを音楽のように注ぎ込むが、露わな感情を放出することなくある種の型=スタイルを保っていく。大竹しのぶは、台詞の中から核となる感情を掴み出し、対する役者によってその感情の表出のさせ方をカメレオンのようにクルクルと変えていく。笹野高史は自然体だ。演出家・串田和美との仕事が長いと言うこともあろうが、役を演じるのではなく、役を生きているかのようなナチュラルさである。役と自分との境目を軽々と凌駕していると思う。古田新太は、独特の存在感で他の役者との差別化を図っているようでもあり、対する相手によっては、例えば大竹しのぶなどとは強烈に感情をスパークさせていくが、その行き来が叶わぬ相手も見受けられる。白井晃は、忠実に物語を再生しようと台詞を明確に語っていくということもあり、その生き様は確実に伝わってくる。秋山菜津子は感情を丁寧に、そして発破を掛けて伝えてくるため勢いがあり、硬質な輝きがある。

 
 


 皆それぞれいいんですよ、役者の方々は。しかし、あまりにもテイストがバラバラなのだ。役者はもともと物語の部分を受け持つ訳だから致し方ないとは思うが、全体を通して、演出家・串田和美が、役者たちをどう融合させ、あるいは反発させ、この台詞をポイントにするのだというような細かなニュアンスなどはなく、演技を積み重ねていくことで、最後には物語をどの地点に持っていきたいのかと言う指針が不明確なのだ。


 


  長塚圭史の戯曲は詩篇のようでいて、本家「桜姫」の物語の上で苦悩しながらも遊ばさせてもらっているような感じ。ひとつひとつの台詞には、染み入るいい言葉も散りばめられてはいるのだが、それぞれエピソードが分断されたものをつなぎ合わせているので、物語の核が作り難い本なのかもしれない。しかし、演出としての核が不明確で、そのいい台詞も役者任せで語られることもあり、台詞が生の感情として生きてこないのだ。また物語の展開とスパークすることもない。


 
 


  唯一、演出の意図が明確なのが、物語の合間に挟まれる生演奏のバンドのシーン。この部分には、この物語を一種の祝祭劇として彩ろうという意図ははっきりと分かる。人間喜悲劇を笑い飛ばすかのようなパッションがそこには感じられる。しかし、これはあくまでもアクセントとなるシーンのはず。メインとなる物語の芝居が決して交わることのない異種格闘技戦になっているので逆にこの音楽のシーンが浮き上がることとなり、迫力不足の本編よりも強烈な印象を観客に与えることになる。ブリッジのシーンのはずが、このバンドに物語が集約されていくこととなる。





  生バンドは戯曲の流れの中でブリッジであると観ながら解釈していたのだが、ラストシーンで、このバンドが前面に出てきて出演者たちとも絡み幕を閉じることとなる。あれ、このバンドをポイントに持ってきたのは、演出意図であったのだとハタと気付くことになる。このことが最大の問題だ。物語を俯瞰し、いいも悪いもひっくるめて人間の可笑しさを祝祭劇という枠で伝えたいということは分かるのだが、そこで生きた人々の生き様が伝わらないため、バンドが入ることで戯曲の濃度がより淡白に薄められてしまうのだ。祝祭劇というコンセプトを観に来ているのではなく、この滅多にない顔ぶれの役者たちがどうバトルしていくのかが観たいがために12,000円のチケット代を払うのである。何度も言うようだが、役者を指導し切れなかった演出家の力量に疑問を抱いた公演であった。