劇評128 

異なるアプローチで平和の本質を炙り出す衝撃作。

「神曲 地獄篇」

2009年12月12日(土)晴れ
東京芸術劇場中ホール 17時開演

演出・舞台美術・照明・衣装:ロメオ・カステルッチ
音楽:スコット・ギボンズ
出演:アレッサンドロ・カフィーソ、
    マリア・ルイーザ・カンタレッリ、
    エリア・コルバーラ、シルヴィア・コスタ、
    サラ・ダル・コルソ、マノーラ・マイヤーニ、
    ルカ・ナヴァ、ジャンニ・プラッツィ、
    ステファーノ・クエストーリオ、
    セルジョ・スカルラテッラ、
    シルバーノ・ヴォルトリーノ


 

 
 

「神曲 煉獄篇」

2009年12月19日(土)晴れ
世田谷パブリックシアター 19時開演

演出・舞台美術・照明・衣装:ロメオ・カステルッチ
音楽:スコット・ギボンズ
出演:第一星・イレーナ・ラドマノヴィッチ、
    第二星・ピエル・パオロ・ジッメルマン、
    第三星・セルジョ・スカルラテッラ、
    第三星U・ユリ・ロヴェラート、
    第二星U・ダヴィデ・サヴォラーニ
 
場 :  「地獄篇」では、会場のロビーに入ると、ブーンと放電しているかのような電子音が唸る音が聞こえてくる。開場された劇場内に入ると、舞台上には電飾のように瞬いている “INFERNO”という文字が後ろ向きに置かれており、電子音はそこから流れてきていたことが分かる。モダン・アートの展示会のようだ。この無機質な感覚は、結構好きなタイプのテイストだ。
「煉獄篇」では、開場時に「地獄篇」のような仕掛けはないが、1階前列が半円状の形態に設えられており、床には黒い布が敷かれている。これ世田谷パブリックシアターがコロセウム状の造りなので、1階部分をそのような形態にして、会場中の雰囲気を統一したのであろうか。確かにそういうレイアウトにするだけで、観る観られるという一方向のベクトルが、多少放射される雰囲気に切り代わる効果をもたらしている。
人 :  「地獄篇」「煉獄篇」共、6〜7割位の入りでしょうか。「煉獄篇」の世田谷パブリックシアターは、3階席を潰していました。年齢層は40歳代からと、やや高めな層の来場者が多い感じ。中には、学生風の方が一人で来られていたりもする。チケットに学生券があるからかな。各種団体や企業がサポートしているだけのことはありますね。また外国人の方々の姿もちらほら見かけます。


  カステルッチは、ダンテの「神曲」をなぞることはしない。その真髄を掴み出し、アーティスティックに施された現代のシチュエーションの中にその核を放り投げ、核分裂する様を実験しているかのような手法が、独特である。

 


  「地獄篇」は、さまざまなイメージが連続して展開されていく。まずは、カステルッチが自らを名乗るところから舞台は始まる。ダンテ自らが“森の中に迷い込む”と宣言してスタートした「神曲」と同様、語り部が物語の中心に据えられることになる。カステルッチは防護服を身に纏い、その後勢い良く走り込んできたシェパードに咬みつかれることになるのだが、これも豹と獅子と牝狼に襲われた原本に倣うところであろう。


 
 


 次は黒い大きな箱が現れ、その周りを覆う黒い布が剥ぎ取られると、中には10人程の幼稚園児位の子どもが奔放に遊んでいるシーンが展開される。その後キューブは鏡となって、観客を映し出してもいく。また、バスケットボールをドリブルすると骨が砕けたような音がなる行為が次々と他者へと引き継がれていく様や、ベルギリウスを彷彿とさせるアンディ・ウォーホールの行為を真似て他者が磔刑のポーズで身を投げ出す様を繰り返し、またウォーホールが観客に向かってポラロイドカメラを向けるといった断片的なイメージがコラージュされていく。反復行為を行い続けることと、それを知らず知らずに繰り返している我々観客こそが地獄の住人だと言わんばかりにアジテートしてくるが、それぞれのシーンに意味性はあるのだが、シーンとシーンとの間の連続性が希薄なため、見ているこちらの感情が断絶し、エモーショナルな感情の高まりを喚起させないのだ。美しく刺激的なインスタレーション、と言った印象であった。


 


  「煉獄篇」は、「地獄篇」とは全くアプローチ方法が異なり、物語としての大きな軸があるため、登場人物たちのヒリヒリとした感情が直球で投げ掛けられる衝撃作であった。父と母と小学生低学年位の息子の3人がメインの登場人物。後、10数年後の父と息子も登場する。


 
 


  まずはこの圧倒的な美術の素晴らしさは、演劇の装置という概念を軽く超えている。美を知り尽くしたカステルッチだからこそ描ける、そこにあるもの全てに意味があり、かつ美しくもあるという、一切無駄のない引き算の美学で満ち溢れている。また、「地獄篇」でもそうだったのだが、照明の光源が一切明かされないのも大きな特徴だ。故に、光線のエッジもはっきりとはさせない。ここまで、徹底したアプローチをしている照明家は見たことがない。シンプルなことなのだが、この手法がどれだけ舞台にリアリティを与えるかは計り知れないものがある。






  登場人物たちは何かに憑かれているようで、その押さえ込んだ感情を日常の生活の中で押し殺して生きているかのような閉塞感で、舞台は息が詰まりそうな緊張感が張り詰めている。料理を作る際の包丁の音、什器を並べるシルバーの音など金属的な音響が、観る者に対して嫌悪感をさらに拡大させていく。また少年が見る幻なのか、少年の心の守護神であるかのような居間に存在する巨大ロボットが、無機質な部屋に違和感を与えていく。



 

 登場人物それぞれの行動を解説するかのように、字幕が舞台手前にある紗幕に投影されるが、そのうち字幕と行動とがだんだん乖離していく、その居心地の悪さ。調和が少しずつバランスを崩し瓦解していくのだ。そして、疲れた父が行うのは、息子への性的虐待。それを声のみで表現する。延々と誰もがいない舞台に流れる、おぞましい叫び声。一見、何事もない平和な日常の中の奥底に潜む「煉獄」をカステルッチは炙り出していく。しかし、その後少年は、うなだれる父の膝に乗り、赦しを施すかのように額と額を重ね合わせるのだ。その聖人のように超越した意識が、平和を取り戻す手段とでも言うのだろうか。煉獄の解決策は、またしても日常を大きく逸脱した地平に存在しているようなのだ。

 

 少年が見る幻とも夢ともとれる、万華鏡のようなシーンが圧巻だ。大きく円形に開かれた壁のその向こうには、巨大な男根にも見える百合の花や、生い茂る草むらの向こうから父が現れてくるなど、フロイト的とも取れる潜在意識が顕在化した悪夢のようなシーンが展開されていく。その光景を見続けている少年。心の内側を開陳してみれば、悪夢は美しい光景として変換されてはいるが、永遠に消すことのできない刻印を押していることが明らかになる。赦しは、平和を獲得するかもしれないが、心の平和までもは取り戻すことができないという、衝撃を喰らって、観客はただただ、立ち尽くすしか術はない。観客は明日からの生きる術を、何に託せばいいのかという重い十字架を背負って劇場を後にすることになる訳だ。衝撃作である。