劇評131 

劇表現の新しい手法が編み出されたエポック的な作品。


「なにわバタフライ N.V」

2010年2月7日(日)晴れ
シアタートラム 17時開演

作・演出:三谷幸喜
美術:堀尾幸男
衣装:黒須はな子
照明:服部基
出演:戸田恵子

 
場 :  初日である。スタッフ関係者の方々などの姿もお見かけします。 シアタートラムはキャパが少ないせいもあるのか、いつもどのタイミングで行ってもスムーズに入場できてストレスがないです。会場はノーマルな構造。会場入口の向こう・対面に舞台が設えられ、その舞台を見下ろすように客席が組まれています。
人 :  総体的に年齢層は高めな感じですね。確かに若者は少ないです。これはこの演目が大人好みだということなのでしょうか。三谷作品は万人が楽しめるテイストだが、通が好んで観たがる傾向も高いからなのかな。でも観たい人がちゃんとチケットを買って観に来れるというのは健全でいいと思います。

 N.V、ニュー・バージョンである。タイトルにもそう謳われているからには、初演時とは決定的に違う何かを見せてくれるに違いないという思いは見る前から抱いていた。三谷幸喜のことであるので台本にも大分手を入れるのであろうし、初演時とは決定的に違う何か仕掛けがあるのかもしれない。そんな期待を持って開演を待っていたのだが、スッと始まったそのN.Vの世界に、グッと惹き付けられ、だんだんと目を離すことが出来なくなっていく。

 そこには何か特異な要素を付け加えて劇世界を広げていくのとは真逆にある、出来る限りプラスの演出的要素を削ぎ落とすという限りないシンプルなアプローチにより、戯曲の、そして役者の魅力が、初演時以上にストレートに伝わるという、仕掛けといえば仕掛けが施されていたのだ。初演時、戸田恵子も、そして三谷幸喜も、すごく頑張ったな、大変だったろうな、でも面白かったなという、頑張った感が全面に出ているという印象が強烈にあったのだが、今回はその頑張りを一切感じざせないという戦略を採っているのだ。ステージレベルが一段階上がったということか。

 開演時間になると特にベルがなるわけでもなく、上手からヒョコッと戸田恵子が顔を出し、そろりそろりと舞台上に登場してくる。ここで、挨拶が始まる。一人芝居だからずっと私しか出ませんのでお互い頑張っていきましょうねとか、一人芝居はこれまでいろいろなパターンで作られてきたがこのお芝居はそのどれにも属さないのだというようなことを話し、そのいくつかの一人芝居のパターンを演じてみせる。

 こういう自然な感じで始まる前口上も珍しい。そして既に舞台上に置かれていた小道具を広げ始め、床に敷く布を観客にサポートしてもらい敷き終える。もうこの本核的に芝居が始まる前の時点で、観客はこの舞台、そして戸田恵子と一心同体となり、会場全体が完全にひとつにまとまっているのだ。いや、まとまるように、演出されているのだ。もう、それだけで、すごいと思う。こういう言葉があるのかどうか分からないが「隠れ演出」とでも言おうか。技を技と感じさせない技が炸裂する。

 今回この再演を見て、一人芝居へのいろいろなアプローチがされている作品であるということがとても良く分かった。前口上で、この作品はどのジャンルの一人芝居にも属さないと言われていたが、逆にどの手法をも実に巧みに取り入れながら、結果、全く新しい手法を編み出しているのだ。モノローグで語る。相手がいるという想定で会話が交わされる。そしてそういう状況を傍観者のように客観的に語っていく。様々な手法で、一人芝居の主観を絶えず客観へと引き戻しながらも、どの位置にも留まることなくスパイラルさせながら、物語をズンズン進めていくのだ。

 これは三谷流異化効果とでも言うべき手法だと思う。作られた作品が、これ見よがしに観られるのを控えているために気付き難いが、今作において演劇の新たな視点、手法が開発されたのではないだろうかと思う。三谷演出ではブレヒト幕を使うことが良くあるが、まさにそのブレヒトの異化効果を意識しつつも、演劇のある種の固定した枠組み、観る観られるというこれまで絶対的だと思われていた演者と観客との関係性の壁を取っ払うことに成功したと思う。これは画期的なことであると思う。文学的に書かれた戯曲の意図を汲み劇世界へと展開させていくという従来の演出という概念を、作者を兼ねる三谷幸喜が内側から破ってみせたのだ。それもごく自然な感じに見えるように。

 ひとりしか出演しないからといって、戸田恵子に飽きることは全くない。むしろ惹き付けられた目は最後の最後まで釘付けになったままだ。ミヤコ蝶々という稀有な芸人の人生を変に物真似などをして表層的になぞることなく、その真意を汲み取り自分のフィルターを完全に通してから表現されるため、その人物はミヤコ蝶々という人物を超越して、あるひとりの女の生き様へと完全に昇華しているのだ。

 劇表現の新しい手法が編み出されたエポック的な作品であると思う。しかし、決して斬新なことに挑戦しているのだという風に見せないというところが、また実に巧みであると感じ入る。