劇評134 

相反する観念が同時に存在する
不可思議さと悪夢を現出させた寓話。


「農業少女」

2010年3月7日(日)晴れ
東京芸術劇場 小ホール1 14時開演

作:野田秀樹 演出:松尾スズキ
出演:多部未華子、山崎一、江本純子、吹越満

 
 
場 :  野田秀樹が芸術監督になって、東京芸術劇場に赴く回数が増えた。やはり興味を惹く演目が多くなったんですよね。ここ実は駅からもかなり近い好立地なんですよ。今回の公演の会場は地下1階の小ホール1。「ダイバー」以来かな。会場の構成はオーソドックス。入口側が雛壇状の客席で、その向こう側が舞台。開場時から既に設えられているセットが見えている。木を多様した造りで、家の中にも外にも見えるような雰囲気だ。まあ、場面がクルクルと転換することになるのでしょうけどね。
人 :  男女比は半々位かな。通常の演劇公演は若い女性比率が高いが、この演目故か、演劇好きな人々が集まってきている感じがします。誰かお目当ての役者を観に来ているというよりは、この作品自体を観に来ている感じだ。ひとり来場比率も高いような気がする。何かいい感じになりつつありますね、この劇場。観たい人が観たい演目を観に来れるというのは、健全だと思います。

 野田戯曲を野田自身が演出をしないメジャー公演は、蜷川演出以外ではこれまであまり無かったのではないだろうか。今回演出をするのは松尾スズキ。松尾自身も、「キャバレー」を手掛けたことはあるが、演出だけに徹するにはこれまた珍しいことであると思う。まずは、このなかなか魅力的なタッグに、期待感が高まる。

 「農業少女」は昨年タイ人バージョンの作品も観ており、バンコクに憧れる田舎の少女という設定自体に、妙なリアリティを感じたことは記憶に新しいが、本作は原本通り日本が舞台であり、比較すると地方と東京との落差というものがタイ程の隔たりではないような気がする。そういう視点で観ているということもあるだろうが、本作はリアルさを追求するというよりは、物語を一種の寓話として捉えていこうとする意図があるような気がする。同じ戯曲でも、状況が変わると語り口が変質するということが、演劇という生モノの面白さであると感じ入る。

 4人の役者の個性が見事にバラバラで、良い意味で拮抗しているところが本作の大きな見所であると思う。それは既にキャスティングの時点で立てられた戦略であったのだろうが、役者でもある松尾スズキがその役者個々人の資質を丁寧に引き出しているのだと思う。

 当たり前のことだが通常は展開されるストーリーに舞台は先導され、その世界の中でどう生きていくかというのが役者の在り方であると思うのだが、本作は役者がまず在り、物語を牽引していくことになる。役者が物語や役柄に入り込み過ぎず、生身の自分と役柄との位置を対等に保つよう、繊細なバランスが取られている。役者を見せることが最も優先されるポイントであり、野田戯曲はその実に良い素材となっている気がする。悪い意味ではなく、演劇的というよりも、コント喜劇的な様相とでも言ったら言いであろうか。

 物語の中心に立つ多部未華子の存在が本作のキーとなってくる。彼女はまるで人形のように華やかで誰をも魅了するのだが、その無垢さがかえって人の心を翻弄もさせるというやっかいな存在だ。彼女がリアルで無ければ無い程、周りの男たちが右往左往する様がクッキリと浮かび上がってくる仕掛けだ。

 多部未華子の資質を見抜き、ピュアな次元へとその役柄を導いた演出が成功したのだと思う。だから無理なく寓話へと物語は昇華したのだ。後は芸達者な御仁に任せておけば、クルクルと物語は展開していく運びだ。中年男の山崎一が多部未華子に恋慕するロリータ的要素の軸と、吹越満と江本純子が象徴する社会の欺瞞を凝縮した側面が、結果、前作よりもさらにカリカチュアライズされ、面白可笑しく強調されることになった。

 会場に潜む役者、箱に囁いている光景がモニターに映し出される仕掛け、映像として映し出される虚像など、松尾演出は、現実と虚構を行き来させる仕掛けを其処此処に散りばめているため、物語が進めば進む程物語の核心へと近付いてはいくのだが、それは本質とはドンドンと乖離しているのではないかというような違和感を味わうことにもなるのだ。相反する観念が同時に存在する、不可思議さと悪夢とが現出することになる。面白い。

 松尾スズキの才能が野田戯曲に潜んでいた新たな鉱脈を発見し、これまでとは全く違う研磨方法で磨いて見せた本作は、見る角度によって光の放ち方をまるで異にする、新しい発見に満ち満ちた快作に仕上がったと思う。