劇評137 

平和日本が生んだ“功罪”を、
日常レベルでリアルに斬り取ったスーパーリアルな快作。


「裏切りの街」



 

2010年5月8日(土)晴れ
PARCO劇場 19時開演

作・演出:三浦大輔 音楽:銀杏BOYZ
出演:秋山菜津子、田中圭、安藤サクラ、
古澤祐介、米村亮太朗、江口のりこ、松尾スズキ

 

 

場 :  会場内に入るとプロセニアムには黒い緞帳が下りており、携帯、アラーム系の電源は切ってくださいとのメッセージが映像で投影されている。会場内にはヒーリングっぽい系統だが、時にアクセントのあるミニマルなテイストのBGMが流れている。演出家が観客の心持ちを、開場時からひたひたと劇世界へと誘おうとする意図が感じられる。
人 :  PARCO劇場に向かうにはエレベーターを利用するのだが、1階フロアでエレベーターが来るのを待つ客の雰囲気が大人しい感じである。また、場内でパンフレットやグッズ類を買う方比率の少ない様子。ミーハー感のない、純粋に芝居を観に来ている方々が集っている雰囲気が漂う。後列数列は空席です。演目のせいなのか、社会状況のせいなのか、演劇ファンをメインターゲットにした作品は、なかなか集客は難しいんですかね。

 面白かった。そして、ヒリヒリと刺激的だった。しかし、この終始舞台を貫く、低温度な緊迫感は何に由来するのだろう。

 危機感を喪失した現代の日常生活の中で、思考が脳を経由せず本能的に生きているような登場人物たちが放つ、人に依存はするが信じてはいないというある種のあきらめにも似た裏腹な言動の中に、何か底知れぬ怖さを孕んでいることが緊迫感を生み出している理由なのかもしれない。皆が皆、表の顔と裏の顔を、当たり前のように演じ分けているのだ。そういう行いが、実生活の中できっと自分も他人に感じているであろう、決して全てが分かり合えることなどできないのだという意識の壁を彷彿とさせられるため、だんだんと心が弛緩していくのだということに、ふと我ながら気付くことになる。

 ここで演じられていることは確実に芝居なのではあるが、まるで知人の行動観察をしているかのような錯覚を覚え、物語の世界と自分の心の在り方とがいつの間にかシンクロしていくのだ。とつとつと語られる言葉の数は決して多くはない。ごく平易な会話が重ねられていくだけで、美辞麗句をうたいあげるようなことはない。衣装も日常生活から抜け出してきたかのようなリアルさだ。ただだらだらと過ごしていたり、ただぶらぶら歩いていたりする台詞の無いシーンも多いのだが、何故か舞台から目を離すことができなくなってくる。

 そうか、台詞を聞きたいがために芝居を観にきているわけではないのだ、何かを体感したいがために劇場に足を運んでいるのだと思う自分を発見しつつ、だんだんと登場人物たちと同じ空気感を共有するようになっていく。物語に吸い寄せられるのではなく、物語がひたひたと自分に近寄ってくる感じなのだ。スーパーリアル、であると思う。

 田中圭演じる若者が主軸となるのだが、この男が彼女の家に居候する、フリーターでもない、何も仕事をしていないという設定が面白い。毎日、彼女から渡される2,000円で生活しているのだが、多少の憤りを感じながらも、そういう自分を自分でどこか良しとしてしまっているようなのだ。そういう立場の弱さもあるのだろうが、彼女が友人とデキてしまったことが分かっても、その彼女も友人も責めることなく受け入れてしまう。まあ、自分も人妻と浮気をしているわけであるが。しかし、彼は許しているわけではなく、ただ現実から目を背けて逃げているだけに過ぎないのだ。但し、妊娠したとか、人妻の旦那と会うなどといった現実問題に直面すると、弱い心が折れてしまいそうになる位追い込まれていく様が滑稽で面白い。田中圭の繊細な感情表現により、何故かついついこちらも共感させられてしまうような人物が造形されている。

 秋山菜津子演じる人妻は、若者にも夫にも、終始敬語で話し続けている。しかし、両者対する思いは同じではない。夫に対する思いは、今、妻である自分を自分自身がどこかで受け入れることができないという意思表示が敬語につながっているようであり、そういった意識は、江口のりこ演じる妹に指摘もされている。片や、若者に対する思いは、混沌とする自分の思いをガードするための武器のようなものであると思う。秋山菜津子は、凛としているが現実に対峙出来ない脆さを、見事に体現している。

 松尾スズキの飄々とした存在感が作品にグッと軽快さを与え、安藤サクラの淡々とした語り口や身繕いがリアルさを増幅させている。米村亮太朗の中途半端な若者度、江口のりこが醸し出す生活感、古澤祐介の表層的な主体性のなさなど、役者のアンサンブルも見所であり、三浦大輔の役者に対する演出の細かさが見て取れる。

 三浦大輔演出は、役者の感性で自由に泳がせているという風ではなく、かなりきっちりと意図通りの図柄に納めていくアプローチをしているような気がする。だから、台詞と台詞との間にある間合いや、ちょっとした仕草など細かな所作からからも、絶妙なリアルさが立ち上ってくるのだと思う。

 音楽は登場人物たちの右往左往振りに寄り添いながらも常に客観的である。それぞれのシーンの情景を俯瞰して見ているかような感覚は、作品の世界観を広げ、此処ではない何処かへの逃げ道を指し示しているかのようにも感じられる。

 今、を描いているから当然のことであるが、登場人物たちのコミュニケーションは携帯電話である。ケータイでの電話対応やメール内容などに、意外にも本音のようなものがポロリと出てしまうのもまた、リアルである。しかし、皆、最後まで相手に対して、声を荒げることも、本音をぶちまけることもしない。皆、押し黙ったまま、二重生活を断ち切ることなく、暫定的にそれぞれの関係性を継続して生きる選択をするのだ。この決断は、誰もがかくあるべきと思い描くモラルへの、アンチテーゼであると思う。これが、問題先延ばし日本の、今のリアルなのだ。平和日本が生んだ“功罪”を、日常レベルで斬り取ってみせた快作だと思う。