劇評148 

「生」と「死」の在り方、捉え方を静謐に描く秀逸な作品。


「聖地」

 


2010年9月19日(日)晴れ
彩の国さいたま芸術劇場 小ホール
14時開演

作:松井周
演出:蜷川幸雄
演出補:井上尊晶
出演:さいたまゴールド・シアター

場 :  会場となる彩の国さいたま芸術劇場小ホールは、馬蹄形の競り上がった客席から舞台を見下ろすような構造に設えてある。どの席からでも見易い造りだが、演じる方からするとどの角度からも見られてしまうため、なかなか大変だろうなと思ってしまいます。舞台上には、既に、椅子などが配されている風であるのだが、アクティングエリア全体に布が被されてあるので、今は使われていない屋敷の居間のような雰囲気が漂います。
人 :  8割位の入りでしょうか。客層のその殆どが出演者の関係者のような感じがします。客席内の其処個々で会話が弾んでいます。年齢層は当然、年配の方が多いですが、一緒に来られたお孫さん位の若者の姿なども目立ちます。このさいたまゴールド・シアター独特の客層と雰囲気ですね。

 来場時には既に舞台上全てが覆われていた大きな白い布が、スルスルと舞台後方に引かれていくのを合図として舞台はゆっくりと物語を紡ぎ始める。このオープニングの仕掛けが、封印されていた過去の時を遡っていくのだという暗示を感じさせながら、時空のうねりを一気に凌駕していく。シンプルだが、印象的な幕開きだ。

 布が引き剥がされると椅子やテーブルなどが現れ、ホテルのロビーとも、屋敷の居間とも取れるような空間へと場は変転し、一見、前回公演の「アンドゥ家の一夜」の舞台設定と似たような雰囲気にも感じられる。しかし、もちろん此処はポルトガルという開放的な異国の地ではなく、近未来の老人ホームだということが分かってくると、何故かこの場が閉じられた箱庭のような密室空間にも感じられ、観る者の意識も心なしか収縮してくる感じさえする。

 とつとつと物語は語られていくのだが、場面は数人の会話によって成り立っていくことが多く、さいたまゴールド・シアターの大勢の面々がいながらも、なかなか皆が揃って丁々発止とやりあう集団劇へと展開していかない。会話を交わし合う人々の数が多くはないということもあり、この広い空間の中には寂寥感が漂い、物寂しい空気感が作品を覆い始めていく。しかしこの雰囲気が、本作のテーマともいえる“目の前にある死とどう向き合うのか”という設定とリンクし、相乗効果を発揮していくことになる。

 舞台となるこの近未来においては、老人は延命治療を施すよりも、「エコ」という名目の下に、「死」を迎えることが奨励されているという設定が成されている。老人たちは決心がつくと、山などに分け入り自ら命を賭すことになる風潮の世界なのだ。いわば、「楢山節考」の近未来版である。しかし同作と違うところは、このリミットを設けられた寿命を前に、老人たちは生きるということは何なのかということに直面し、俄然、生きる理由、死ぬ理由を自ら追求していくことになるのだ。松井周の筆致は、決して声を荒げることもなく、一見淡々としながらも、身体の内側から溢れ出る「生」の渇望を描いて独特である。

 この老人ホームにいた元アイドルが不審死したことをきっかけに、元ファンクラブのメンバーが乱入する事件が冒頭で起き、「今からここは聖地となる」と宣言される。しかし、そこで少々の諍いはあるものの、いつしか院長たちとも折り合いが付いているようでもあり、乱入者も、だんだんと老人ホームのメンバーと相まみれていくようになる。異物であったはずのものが、いつの間にか同質化してしまうのだ。いや、これは個々人が抱えているものが、そもそも同じことであったということなのかもしれない。

 また、「聖地」という言葉は、ある種の波及効果をもたらしていくことにもなる。死を目前にした人々が、この場所を無意識に目指していくエピソードなどが挟み込まれていくことになるのだ。ただ、目指すとはいっても、派手なアジテーションや情報発信をしている訳ではないので、皆、この場が目的地だとはっきりと自覚しているのではなく、集団的無意識が働いているかのように、知らず知らずの内に、同時多発的に引き寄せられるように集まってくることになるのだ。

 大きなうねりへと物語が集約していくことのない、一見平易にも見える毒気を含んだこの戯曲に対して、蜷川幸雄演出は一切の仕掛けを封印し、松井周の言葉と、さいたまゴールド・シアターの面々が培ってきたリアルを掛け合わせ、スパークさせることに集中している。サプライズを盛らない決断は賭けであったとも思うが、その戦略は成功したと思う。押し込まれるようにではなく、「死」と「生」がひたひたと滲むように観る者の心に染み込んでくるのだ。

 さまざまな思いで生き抜いた人々であるが、時が経つと共にその事実は風化し、施設自体も時間の埃が堆く積まれていくこととなる。そこで、さらに時間を経て、次代の人々がこの施設を見つけるという展開になっていく。そして、廃屋となった施設内を歩く町役場職員は、シーツの下からミイラ化した老女を発見する。そうか、「聖地」というものは、そもそも人が生き死にしていた場そのものなのなのであり、その痕跡を見出すことで伝説化され、より崇め奉られることになっていくのだなとも感じ入る。新たな「聖地」となった場の上を、まるでその事実を俯瞰するかのようにラジコンヘリが旋回して飛び回り、過去と現在と未来との時空間に風穴を開け、一気に時を串刺しにしていく。

 「聖地」というものは、見出されるものであると同時に、自らが礎を築くものであるのかもしれない。今いるこの場所自体が、もしかしたら「聖地」と成り得るのかもしれないのだ。人類にとっての、自分にとっての「聖地」とは一体何なのであるのかという疑問を観客に提出しつつ、「生」と「死」の一種の在り方、捉え方を静謐に描いて、秀逸な作品だと思う。