劇評176 

中谷美紀とフランソワ・ジラールの才能が見事に融合した繊細な逸品。

「猟銃」

2011年10月8日(土) 晴れ
PARCO劇場 19時開演

原作:井上靖 翻案:セルジュ・ラモット
演出:フランソワ・ジラール 日本語監修:鴨下信一
美術:フランソワ・セガン 照明:デヴィッド・フィン
音楽&音響:アレクサンダー・マクスウィーン
衣装:ルネ・アブリル 着物デザイン:小田桐はるみ
出演:中谷美紀、ロドリーグ・プロトー
ナレーション:池田成志

場 :  PARCO劇場はいつもであれば、贈られた花がロビーにたくさん陳列されているのですが、今回、花は一切取り払われていて、ロビーの写真撮影の禁止になっています。何かあったのかな? 会場内に入ると、緞帳は開いているだが、舞台上がほの暗くなっているので、はっきりと何が設えられているのかは認視できない感じです。

人 :  ほぼ満席です。客層は、あまり演劇を観ない方々が多い感じがします。男性一人客、年配の方も目立ちます。中谷美紀のファンなのでしょうかね。あと、たまたまかもしれませんが、開演してから来場する人が何組かあったのが気になりました。

 映画「レッドバイオリン」や「シルク」の映画監督として認識していたフランソワ・ジラールが演出を担当する演劇というところに大いに惹かれて来場した。氏は、シルクド・ソレイユやオペラの演出なども手掛けているのですね。また、井上靖の原作を翻案したのがセルジュ・ラモット。三島由紀夫の「金閣寺」を見事に戯曲化した異才だ。否応無く、観る前から期待は高まっていく。

 日本の演劇がある種の固定概念に縛られているのだなということに、本作を観て逆に感じ入ることになる。極力絞られた光源は役者を見せるということよりも、そこに人間を息づかせる役割を担い、美術は戯曲の中にある事柄の意味を説明する道具としてではなく、登場人物の心情を際立たせるために存在している。夾雑物を一切排除したところに本当に語りたいものが浮かび上がってくるという方法論は、アーティストの作品制作過程のアプローチにも似て、実にスリリングだ。

 物語は、一人の男に宛てられた3人の女の手紙を語るというシンプルな構造である。男の妻と、愛人とその娘。中谷美紀は一度も舞台から下りることなく、90分ノンストップ、たった1人でその3人の女を見事に演じきる。

 舞台背後に、ロドリーグ・プロトー演じる男が舞台上に存在はしているのだが、もはや一人芝居以外の何ものでもない。中谷美紀が、演劇的なこれ見よがしな大仰さを一切排する演技で、己の中に在る実力を遺憾なく発揮させ、グイグイと観客を劇空間へと集中させていく。とうてい初舞台だとは思えぬ、その華麗さと迫力が圧巻だ。

 母の不倫を知った娘、夫と従姉との不倫を知りながらも見て見ぬ振りをしてきた妻、離婚後、従姉の夫と不倫関係を続けてきた女たちを、中谷美紀はクッキリと演じ分けていく。手紙という書簡小説を活かした構成を取っているため、中谷美紀はことさら感情的になり過ぎることなく、書かれた言葉に密接に沿うように緻密に人物像を創り上げていく。

 目線の配り方、立ち振る舞い、声のトーンや強弱の付け方などが、実に繊細に積み上げられていくのだ。女たちの感情の渦中に素手で飛び込むという役作りの仕方とは対極とも言えるこうしたアプローチは、人間が内に秘める真情を静謐に紡ぎ、観客たちに女の感情を“知性”で理解させることを促していく。この手法は、フランソワ・ジラールの、論理的な思考が反映されているに相違ない。

 「シルク」でも、自然の取り込み方が上手かったフランソワ・ジラールであるが、水、火、石、木を生かしたフランソワ・セガンの素晴らしい美術が、この繊細な物語世界に、一際美しい印象を付け加えていく。アートの領域であると思う。

 カナダでの稽古期間を多く取ったということのようだが、そこで創作された過程が作品に独特のトーンを反映させ、日本のタイムサイクルの中では成し得なかったであろう、知的な優雅さを獲得し得たと思う。作品は、生み出されていく過程が大事なのだということに改めて気付かされることになった。

 本作は、中谷美紀とフランソワ・ジラールの才能が見事に融合した繊細な逸品に仕上がった。この作品に関わった本物のアーティストたちの今後の動向から、目が離せない。