劇評186 

過ぎた日の昔日の思いをリアルに描いて秀逸。

「パーマ屋スミレ」

2012年3月20日(土) 晴れ
新国立劇場 小劇場 13時開演

作・演出:鄭義信 
出演: 南果歩、根岸季衣、久保酎吉、森下能幸、
    青山達三、松重豊、酒向芳、星野園美、
    森田甘路、長本批呂士、朴勝哲、石橋徹郎

場 :  新国立小劇場は、初台駅からほぼ直結しているので行き易くて有り難い。広々としたロビーから劇場内に入ると、既に理容店のセットが組まれています。そこで、開演前から、芝居に出演する役者さん数人が、アコーディオンを弾きながら楽しく歌を歌い上げ、会場が和やかな雰囲気を醸し出していきます。

人 :  会場は満席です。客層は男女半々で、年齢層は総じて高めです。観客の中に、渡辺謙さんがいらっしゃいました。奥様がご出演されていますもんね。また、松重豊とも、かつて蜷川さんの「ハムレット」で共演していますしね。

 九州の炭鉱で働く人々が住む集落にある、理容店が物語の舞台となる。中央に店舗が設えられ、上手側に畳の小上がりがあり、奥の部屋へと通じる通路がある。ドアは下手側にあり、外には共同井戸などが配されている。それぞれの美術が実に精緻に造られているというこのリアルが、本演目の“意図”を明確化させていく。

 抽象ではなく、具象。隠喩や比喩などといった言い回しは排除され、芝居の全てが日常的な会話の積み重ねと、そこで起こる出来事によって構築されていく。意外にも、こういう質感の芝居を観るのは久しぶりだなと感じ入る。オーソドックスではあるのだが、このアプローチは観る人を選ばず、誰にでも理解出来る方法として優れていると思う。

 物語は1965年、九州の「アリラン峠」と呼ばれた小さな炭鉱町が舞台となる。理容店を営む次女、スナックを経営する長女、そして結婚したての三女と、それぞれの夫たち、父、子どもという、三世代の在日の人々が織り成す人間模様が描かれていく。

 夫たちを含む男たちは皆、何らかの形で炭鉱に関わっているという点に於いて共通している。町は炭鉱によって生まれ、生かされているのだ。皆、苦しい生活を強いられながらも、日々を逞しく生きているのだが、ある日、炭鉱で事故が発生したことにより、生活が徐々に変化を遂げていく。事故現場に遭遇した者たちは、CO中毒=一酸化炭素中毒に襲われてしまったのだ。

 長女の連れ添いなど組合の人々が、被災者の保護、権利を勝ち取るために動き始めるのだが、そこには、日本人で構成される第一組合と、在日の人々で構成される第二組合との確執なども感じさせ、事故の奥に潜む根深い問題にまで斬り込んでいく。

 病魔が本人のみならず、周りの人々を巻き込んでいく様を、鄭義信は深刻さに筆致を傾け過ぎることなく、あくまでも生活者の視点からリアルに活写していく。大変な状況へと物語は展開していくのだが、そこで生きる人々は常に前向きで、また、皆が肩を寄せ合い助け合いながら暮らしていく、その生き様に心打たれる。個人主義など標榜することなどないこの人々が過ごす日々の営みの中に、人間が本来兼ね備えているであろう逞しさの一片を垣間見せてくれる。人間はどんな状況においても、強く生きていくことができるのだという人間賛歌がここにはある。

 しかし鄭義信が描く世界は、表層的な優しさだけを浮き彫りにしたノスタルジーとは一線を画す。登場する度に朽ちていくCO中毒に蝕まれた男たち、次女の夫の弟が抱く恋心とそれを察知した兄との葛藤、その弟が北朝鮮に希望を託し日本を去る展開、事故被害に対する企業側の対応の問題、この地から脱し新天地へと向かう一筋の光明など、抜け切ることの出来ない現実の中であえぐ人間の哀しみをきっちりと描写していく。

 次女を逞しく演じる南果歩が、作品全体に明るさを照射していく。決して後ろ向きになることなく、絶えず前進していくパワーがアンサンブルを牽引していく。その夫を演じる松重豊が圧巻だ。自分の力だけでは変えることのできない現実にもがき苦しみながらも、諦観した境地に足を踏み入れたかのような意識との間を逡巡していく中から染み出る無念さが胸を抉る。根岸季衣の小股の切れ上がった女っぷり、星野園美のおおらかさ、森田甘路の洒脱さ、石橋徹郎の純粋さなども心に染み入る。

 過ぎた日の昔日の思いをリアルに描いて秀逸である。丁寧に紡がれた人と人との絆は、観る者の誰もが、そのどこかに自分をオーバーラップさせることができるような広がりを持ち得ている。過去でありながら、現代にも通じる、社会の中で生きる人間の悲哀が、ストレートに胸を打つ秀作である。