劇評203 

刺激に満々た秀逸な作品として、観客の胸の内に残る作品に仕上がった。


 「遭難、」

2012年10月6日(土) 雨
東京芸術劇場 シアターイースト  19時開演

作・演出:本谷有希子
出演:菅原永二、美波、佐津川愛美、松井周、片桐はいり

  

場 :  新装された東京芸術劇場の地下1階にある小劇場フロアも、内装がビビッドなカラーで一新されたことにより、明るい雰囲気になりました。2つある劇場の向かって左側がシアターイーストになります。劇場に入ると、学校の建物の壁面らしきセットが既に設えられています。

人 :  ほぼ満席です。主役が代わったことによる影響はあまりなかったようですね。観客は演劇を見慣れた風の方々が多い感じがします。男女比は半々位、年齢層は30〜40歳代がメインでしょうか。一人来場者も多く、開演まで静かに待つといった雰囲気です。

 本作は、主役が降板したことにより、急遽、女教師を菅原永二が演じることになったという経緯がある。菅原永二は勿論、女装をしてはいるのだが、変に女に化けようと心身を捻じ曲げることもなく、男が女を演じているというそのフェイクさ加減が、この物語を一層胡散臭いものに仕立て上げており、面白さこの上ない。

  女だからだとか、男だから、と言うような性差の垣根を飄々と超越した地点に本作は偶然にも辿り着いてしまったのかもしれない。誰もが持っているのであろう人間の奇妙な本質部分が、自然と露見してくる羽目になる。

 舞台は学校。登場人物は教師4人に、自殺未遂をした生徒の母親の計5人。語られる言葉は辛辣で、ぐうの音が出ない程相手をグイグイと追い込んでいく様は、まるで大人のいじめに他ならない。いじめを苦にして自殺を図った子どもの親が、担任教師を恫喝していくシーンから物語がスタートする。母、片桐はいり、教師、美波のシーソーゲームは、いじめの構図を凌駕し、まるでSMプレイへとズリズリと接近していく。

 しかし、こんなことは序章でしかない。菅原永二演じる女教師が、その子どもの自殺行為に一役買っていたことを知った佐津川愛美演じる教師が、その蛮行を暴こうと決意する。普段は覆い隠されていた女教師の、共感性が欠如しているという暗部が浮き彫りにされたことを皮切りに、其処個々で、教師たちの皆が覆い隠していた心の本質部分が炙り出されていくことになるのだ。

 共感性が欠如した者が教師を務めている事自体が可笑しな話なのだが、そんな不可思議なことが堂々とまかり通っているのが今の世の中なのではないのかという、アイロニーの効いた本谷有希子流のシニカルな視点がヒリヒリと痛いが、実に爽快ですらあるのは何故だろう。

 悪を描いて爽快なのは、観る者の中に、明らかに悪があるからに他ならない。それを、舞台上の登場人物たちが、代弁してくれているので、胸がスクッとすっきりするのだ。舞台上で右往左往している登場人物たちは、観客席と合わせ鏡になっているという寸法だ。

 物語は二転三転する。女教師は、嘘を嘘で塗り固めていくのだが、そこで起こるほころびを、全て独断と偏見で自らを正当化する手段へと摩り替えていく。そこでは明らかに価値基準の転換が起こっている訳であるが、論理は一瞬でも正当化されてしまうと、その他の事柄が、何とも嘘臭くなってしまうという始末なのだ。矛盾に満ちた女教師の言動が、実は正しく映り、変に正当性を掲げる御仁の意気は迷走することになる。

 母親は、松井周演じる教師と不倫関係と結ぶこととなり、美波はM気質へと目覚め、佐津川愛美はその生真面目さが苦境を乗り越えるための障害となり追い込まれる羽目になる。正論がまかり通る世の中ではないのだと、本谷有希子は筆致していく。

 菅原永二は、淡々と事を運ぶ冷静さと、狂気を孕んだ心の内底の爆発具合が上手くミクスチャーされ、スクっと物語のセンターに立ち続けていた。美波の一見清純に見える女の浅薄なM女具合は愛らしくもあり、鬱陶しい女の性をも感じさせ印象に残る。真っ当な正論を吐く佐津川愛美の生真面目さが、カードをひっくり返すがごとく、ことごとく言動を覆される様の矛盾がままならぬ世の中の理を忍び込ませていく。松井周のナチュラルで嫌われ難い男を演じる造形はリアルに観客の心にリーチし、また、重鎮・片桐はいりに女が持つ裏腹な矛盾の同居を演じさせることにより、物語はより深い地点へと観客を誘っていく。

 時代を照射し、人を活写する才能に、しばし酔い痴れることができた幸福なひと時であった。共感出来ないという性質の人間を取り上げることにより、観客にどのように思われるかというある種の実験的なトライアルでもあった本作は、刺激に満ち満ちた秀逸な作品として、観客の胸の内に残る作品に仕上がった。心地良い、逸品であると思う。