劇評216 

人間万歳! 人間そのものが堪能できる秀作。

 
「ヘンリー四世」

2013年4月21日(日) 曇り
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 13時開演

作:W・シェイクスピア 演出:蜷川幸雄 翻訳:松岡和子 構成:河合祥一郎 
出演:吉田鋼太郎、松坂桃季、木場勝己、立石涼子、
星智也、矢野聖人、冨樫真、磯部勉、たかお鷹、
辻萬長、瑳川哲朗、ほか

  

場 :  チケットをもぎり、ロビーに入ると賑々しい雰囲気が漂っています。物販売り場には長い列が出来ています。劇場スタッフの方が誘導をしてくれているので、横入りする人もなく安心です。劇場内は既に緞帳は上がっており、舞台上に微かにスタンド型のシャンデリアがセッティングされているのが見てとれます。

人 :  満席です。女性比率が高いですが、老齢の方も多くお見受けします。年齢層は総体的に高めでしょうか。松坂桃季のファンであろうお若い方の姿もありますね。

 ヘンリー四世が、舞台の遥か後方の彼方から、家臣を引き連れ舞台前面に歩み寄って来る。奥行きのあるさいたま芸術劇場大ホールの舞台を活かしたオープニングであるが、装置は回廊の様に両脇設えられたスタンド型のシャンデリアのみ。本公演は、どっしりとした装置を建て込むことなく、アクティング・エリアの周りから壁が一切取り払われている。

 役者陣の芝居を全面に押し出し見せていくことに主眼が置かれた演出コンセプトが、シェイクスピアの傑作と誉れ高い戯曲の真髄を見事に掬い出すことに成功した。演技と台詞が堪能出来る芝居の醍醐味をたっぷりと味わうことが出来るのだ。

 シンプルだが随所にセンスが感じられる開放感ある舞台設定を、作品として成立させているのは、ひとえに実力ある俳優が居並ぶ鉄壁なキャスティングが成されたことと、その役者たちの力量に全幅の信頼を置いた演出家の判断故であろう。

 また、2部作である本作を1作品として上演時間4時間20分(休憩含む)にまとめ上げた、翻訳・松岡和子、構成:河合祥一郎の手腕も見逃せない。様相を異にする2作品であるが、その違いがクッキリと浮かび上がることで、変転する時代の大きなうねりが見事に表現されることになる。

 放蕩息子のハル王子と忠臣フォルスタッフとの友好と、父であるヘンリー四世との確執など、ハル王子の若き萌芽の1部の時代から一変、2部では王位を継承するハル王子が過去と決別し、老いたフォルスタッフは時代の蚊帳の外の放り投げられていく様を、的確に、且つ、シニカルに描き出していく。本作は歴史劇の括りになるが、登場人物たちの生き様が緻密に描かれた人間臭いドラマであることから、人気の演目である理由が腑に落ちる。 

 フォルスタッフは吉田鋼太郎が演じるが、軽妙、豪快、小心、偉丈夫、法螺吹き、女好きと、誰もが思い当たるような人間的側面を抱合した役柄をふくよかに演じ、白眉である。物語の中心に立ち、作品をグイグイと牽引する。デップリとした体躯と、歩くと苦し気な吐息など、表層部分の見せ方もキュートで観る者の共感を誘っていく。

 松坂桃李がハル王子を演じるが、口舌も爽やかに見事にシェイクスピアが描いた次代の王となるヘンリー五世を見事に造形した。松坂桃李本来の資質なのか、活舌も明瞭で、難解であろう台詞も日常会話の様に観客席に違和感なく響いてくる。アクティングのキレもあり、舞台栄えもする。なかなかな役者だと認識した。

 タイトルロールを演じる木場勝己も、王という地位の権勢を享受しながらも様々な辛苦に心痛する王の人間性を滲み出させ心を打つ。放蕩息子であるハル王子を思いやる気持ちは、父としての感情そのものであり観客の共感性を喚起させる。

 立石涼子の母性、星智也の困惑、矢野聖人の清廉、冨樫真が造作する女の多面性も作品にグッと厚みを加えていく。

 死に瀕する父ヘンリー四世の枕元で、切々と真情を吐露するハル王子は、自らの逸る思いを言葉にすることにより、これから自分が向かうべき道を必死で切り拓いているようにも映って見える。父が死したと思い込み、王冠を自らの頭上の冠してしまうユーモアを振り撒きながら、ハル王子はヘンリー五世へのステップを踏んでいくことになるのだ。木場勝己と松坂桃李が、的確に世代交代の悲哀を演じきる。

 ヘンリー五世となったハル王子には迷いはない。遊び仲間であるフォルスタッフたちとは、もはや次元の異なる世界で生きていく選択をし、かつてのバディたちを遠ざける決断を下していく。哀しむフォルスタッフだが、ヘンリー五世は、かつての蛮行などのあらぬ噂が立ち上がるのを防ぐため、ほとぼりが冷めるまで、彼らを引き離しているのだという思いが口述で伝えられる。しかし、両者が直に相見舞えることはない。その行き違う想いが、観る者の心に深く沈殿していく。

 人間の悲喜劇や心の表裏を融合させながら、ユーモアたっぷりに様々な想いに逡巡する人々を描いた本作は、まさに“人間そのもの”の比喩であると言い切れる。人間は、全ての出来事を背負いながらも、その全てを受け入れることによって、人間は人間足り得るということを何の夾雑物なしに叩き付けてくる。人間万歳! 人間そのものが堪能できる秀作に仕上がった。