劇評218 

視覚的だけではなく、思考回路にも否応無しに入り込んで来る刺激が心地良い。

 
「オセロ」

2013年6月9日(日) 晴れ
世田谷パブリックシアター 17時開演


作:W・シェイクスピア 翻訳:福田恆存 構成・上演台本・演出:白井晃 振付:井出茂太 演奏:生駒祐子、波多野敦子、清水恒輔
出演:仲村トオル、山田優、赤堀雅秋、高田聖子、加藤和樹、水橋研二、有川マコト、近藤隼、谷村実紀、白井晃

  

場 :  初日です。しかし、変な賑々しさはあまりなく、いたって平穏な雰囲気です。劇場内に入ると、舞台上手には洗面台が幾つか並び、下手には生演奏が成されるスペースが設らえています。舞台周囲は剥き出しで、ここがステージであるということを明らかにさせています。

人 :   満席です。初日ですので、関係者風の方の姿も多くお見受けします。年齢層のアベレージは30〜40歳代とやや若めな感じです。男女比も半々位。最近は、男性も芝居に足を運ぶようになってきているようですね。

 劇場で行われているリハーサルという設定が、本作「オセロ」の舞台のベースとなる。しかし、白井晃演出はその設定だけに縛られることはない。あくまでもリハーサルとは、舞台と観客席とを隔てる壁を取り払う、あるいは劇場を一体化させるための入れ子細工として設らえられたプロローグにしか過ぎない。

 シェイクスピアの傑作戯曲は白井晃の才覚により換骨奪取され、「オセロ」の本質はそのままに、現代日本に通体する核を戯曲から掴み出し、見事に再構築していく。その手腕に酔いしれることが出来る幸福に感じ入ることになる。

 イアーゴを演じる赤堀雅秋が演出家的な役割を担い、観客席に設けられた演出家席に度々着いて、そこから指示を出したりもしていく。助手を務めるのは夫人エミリアを演じる高田聖子。「オセロ」と「舞台制作」という“虚実”を、アーティスティックな手法を取りながらも、人間感情の機微を繊細に掬い上げ綯い交ぜにさせながら、目くるめく速さで様々なシーンを展開させていく。次から次へと仕掛けが施されていくため、観客は目を凝らして舞台を注視せざるを得ない。

 井出茂太の振付による仲村トオルや山田優の儚げな舞い。齋藤茂男の手により、蛍光灯や手持ちの明かりなどを駆使した照明が、光のあらゆる可能性を実験的に斬り拓いていくその様に驚愕する。十川ヒロコの衣装は、まるで、アンゲロプロスの作品に登場する人民たちのように、人間の憂いを封じ込めたかのような静謐さを湛える男女の心の側面を炙り出す。松井るみの美術は、可動式の階段を駆使しながらシーンとシーンとを瞬時にしてリアルな場へと変転させ、物語にリアリティある説得力を付加させていく。仕掛けは枚挙に暇がない。

 Mama milkの生演奏が、緊張感と臨場感を同時に供出する。また、演奏する姿が実に艶かしく美しい。演出家席に着いた赤堀雅秋の合図により、演奏が始まったりもするのだが、その赤堀が本来の演出家である白井晃と言葉を交わし合っているのを見ると、それは本当のキューなのか、演技なのかが判然としない、その境界線の曖昧さが本作の醍醐味であり、“創りものである”演劇の本質にも肉迫しているのではないかと思う。また、舞台の進行に合わせて、観客が立席して舞台を観るシーンが2回あるのだが、観客の気持ちをザワザワとさせながらも、妙な一体感が生まれた事実は、その場に居合わせた誰もが体感することになった。

 タイトルロールを演じるのは仲村トオルなのだが、偉丈夫で2枚目、欠落する何ものをも見出すことの出来ない御仁がオセロに扮することにより、観客はひとしきり創造力を働かせることになる。オセロが忌み嫌われる要因を、オセロが今置かれている状況や、周りの人々との関係性などを類推しつつ物語を追うことになっていくという仕掛けだ。しかし、一切泥臭さが排除されたオセロ像は、スタイリッシュで表層的な人物表現に流れたきらいもある。

 山田優の可憐さは、表裏のないデズデモーナの心情を、混じりけのないピュアな資質で演じきる。様々な誤解を生み出す起因となる役どころであるが、こんなにも美しい女性を妻に娶った男に対するイアーゴの嫉妬の焔が、メラメラと立ち上がるのも無理はないという存在感を、説得力を持って表現していく。

 赤堀雅秋演じるイアーゴは、演出家という立場も兼ねている。そのため、作品自体を客観的に捉えるという視点を持って作品に対峙する。このイアーゴの人物造形は、本来の演出家である白井晃の演出コンセプトであることは相違ないが、作品を端から眺めるようなシニカルな立ち位置が作品に冷静さを付与することとなり、その視点は観客にも共有されていく。

 高田聖子はマクベス夫人にも似た狂気を孕んだエミリア像を造形し、次の瞬間、どのような感情をぶちまけていくのかという予測不可能な言動の核を掴んで見事である。

 キャシオを演じる加藤和樹の溌溂とした若さに共存する愚かさ、水橋研二を演じるロダリーゴのピュアな悲劇性、モンターノを演じる有川マコトの洒脱な冷徹さ、そして、白井晃たちそれぞれの個性が脇から作品世界をグッと押し上げ、交錯する様々な感情を分かり易く可視化させていく。

 ラスト、物語は戯曲通りの予定調和で締め括られるかと思いきや、あっと驚く終焉が用意されていた。“差別”という感情は、永遠に無くすことはできないのではなのかという創り手の強烈なメッセージが、今を生きる私たちに直球で投げ付けられてくる。視覚的にだけではなく思考回路にも否応無しに入り込んで来るこの刺激、案外心地良い。