劇評225 

社会の弱者の意気を掬い取る、猿之助の圧倒的な存在感が強烈な逸品。

 
「ヴェニスの商人」

2013年9月8日(日) 小雨
彩の国さいたま芸術劇場大ホール 13時開演



演出:蜷川幸雄 作:W・シェイクスピア
翻訳:松岡和子
出演:市川猿之助、中村倫也、横田栄司、大野拓朗、
間宮啓行、石井愃一、高橋克美、他

 
  

場 :   ロビーに並ぶ花の数が凄いインパクトです。猿之助さんへのお花が、やはり圧倒的に多いですね。劇場内に入ると、プロセニアムには特設の真紅の緞帳が下されています。舞台前面には、ゴンドラを係留するポールが5本立て掛けられています。

人 :   ほぼ満席です。客層の年齢層は、やや高めでしょうか。妙齢の女性比率が高いですね。猿之助さんファンが多いようです。

 「ヴェニスの商人」は、シャイロックの描き方一つで全く違う展開を示す作品であるが、猿之助をシャイロックに迎えた本作は、ピカレスクな面白さに溢れた悪漢ものの様相を呈しスリリングで爽快だ。まるで弱いものいじめのような、そして、その光景を見て周囲の者たちが快哉を叫んでいるとしか思えない物語であるが、そんな圧力何のその、逞しく生き抜くユダヤ人シャイロックを猿之助が生き生きと造形して心地良い。

 どうやら本作の上演は、猿之助から蜷川に対してリクエストしたようであるが、シェイクスピアが描く本作の勧善懲悪の世界観が、歌舞伎が描くスピリットと合い通じるものを猿之助が感じたためであろうか。また、かつて、多くの歌舞伎役者が本作に取り組んできた連綿とした歴史があるが、そんな要因も猿之助を突き動かすことになったに相違ない。

 蜷川の演出は、役者の資質を最大限に活かし切ることに主眼が置かれており、美術もヴェニスであることが分かる環境を設えたフェーズに留まり、いたってシンプルな造作だ。しかし、オールメール・シリーズの一環に据えることにより、観客は人物造形の面白味に注視することになる。面白い。

 また、登場人物が語り合う背景に、修道僧たちがその光景を目撃しているというシーンが、時折挟み込まれていく。もの言わぬコロスいった在り方だ。その修道僧の存在が、観客の視点とオーバーラップして作品に客観性を付与し、また、動きや佇まいがユーモラスな存在感を示すことにより、物語が深刻さから解放されていことになる。

 それにしても、猿之助の存在感は圧倒的である。歌舞伎の所作や語り口も独特に、物語から一人抜きん出てグイグイと作品を牽引していく。居並ぶベテラン俳優陣とは全く異なる技法を、多くの抽斗の中から開陳し叩き付けてくるのだ。その目くるめくような展開に、観る者は心躍らされことになる。

 そんなシャイロックに拮抗するのは、アントーニオを演じる高橋克実。豪胆さと繊細さを同居させた複雑なアプローチで、アントーニオが慕われる要因や苦渋を魅力的に表現していく。猿之助の演技を真っ向からグッと受け取り、的確だ。中村倫也がポーシャを演じるが、若くてクレバーな女性を見事に造形する。シャイロックと対面の岸に居るのだというクラス感がほのかに漂ってくる。

 バサーニオは横田栄司が演じるが、偉丈夫な体躯を活かしたマスキュリンな資質を役柄の中から掴み出す。アントーニオとの相思相愛な関係性をフューチャーする向きもあるが、本作ではドラスティックにあくまでもビジネス上でのお付き合いなのだということが明確に示し、ポーシャへの思慕も腑に落ちる。

 グラシアーノは間宮啓行が演じるが、んっ、誰?と思わせるような、軽妙洒脱な存在感で観客から笑顔を引き出していく。岡田正のネリッサとのコンビネーションも面白く、作品にふくよかな温かみを醸成させていく。

 終盤の法廷の場は白眉だ。シャイロック対ヴェニスの人々といった構造に、筆致の悪意を感じないではいられないが、全ての者たちを敵に廻して大立ち回りをする猿之助から目が離せない。意気軒昂な立場から一転、財産没収に至る転落の様を、まるでジェットコースターにでも乗ってでもいるかのような歓喜と恐怖と驚愕さを交互に繰り出しながら、シャイロックの無念さを爆発させる。裁判に敗れたシャイロックが通路から後ろ髪を引かれる思いで立ち去るシーンで、猿之助は全身で憤懣やるせない思いを放射し圧巻だ。大向こうから声が掛かりそうな外連味に満ちた幕切れだ。

 物語はその後、シャイロックのことなど何もなかったかのように、恋のさや当ての顛末を描いて大団円を迎える。この狂騒振り自体は可笑し味を醸し出すが、猿之助のあまりにも鮮やかな退場が胸にシコリとなって残っていく。

 蜷川演出は、最後の最後にシャイロックを登場させるという戯曲にはない設定を提示することなる。勿論台詞はないのだが、今に見ていろとでも言わんばかりに観客席に睨みを効かせる猿之助の炯眼がドキリと胸に突き刺さる。社会の弱者の意気を掬い取る猿之助の圧倒的な存在感が強烈なメッセージを叩き付ける逸品として、永く記憶に留まる作品に仕上がったと思う。


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