劇評245 

人間の本質を突き付けられると、購うことはできないという真実に驚愕する傑作。

 
「コンタクトホーフ」

2014年3月23日(日) 晴れ
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 14時開演

演出・振付:ピナ・バウシュ
舞台美術・衣装:ロルフ・ボルツィク
アシスタント:ロルフ・ボルツィク、
マリオン・スィートー、ハンス・ポップ
出演:ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団

   

場 : 彩の国さいたま芸術劇場の最寄り駅である与野本町駅で降りる人が、何だかお洒落な雰囲気の人が多いです。本作を観に来た方々の様ですね。劇場ロビーでは、ポスターを販売するコーナーに多くの人が集っています。劇場内に入ると、既に、ヨーロッパのダンスホールらしき美術が組まれています。

人 : 満席です。客席後方には補助席が設えられています。年齢層は30歳〜50歳代まで、実に様々な人々が来場しています。男女比も半々くらいでしょうか。アーティスティックなお客さん比率高しです。

 ピナ亡き後も、ピナの作品を観ることが出来るという幸福感に包まれながら、舞台のアーティストたちを終始注視することになる。コンタクトホーフに取り組むティーンエージャーたちを追ったドキュメンタリー「夢の教室」を事前に観ていたこともあるのだが、1つの作品を作り上げていくアーティストたちの模索と葛藤が、立ち上ってくるようなオーラに噎せ返る気さえする濃密な時が、目くるめくように繰り広げられていく。

 コンタクトホーフとは“触れ合いの館”という様な意味だという。舞台は、地域の公民館の講堂のような場所で、ここで、20数名の男女がお互いを意識し、惹かれ合いもするが、幾重もの葛藤を通過していくことで、対峙し、対立、そして、決別という展開にも陥っていく。男女の関係性の本当に様々な側面を斬り取り、観客が持つ記憶とスパークさせていく。

 ピナは作品を創作していく過程において、アーティストたちに対して多くの質問を投げ掛け、そこから様々なアイデアを生み出していくのだという。表現する者の内面から染み出る感情や行動が真に迫ってくるのは、アーティストたちの生き様が嘘偽りなく迸っているからに他ならない。

 この生々しさにハートをグッと掴まれてしまうのだ。様々なエピソードが紡ぎ合わされていくため、休憩を挟んで約3時間の上演時間を貫いていくはっきりとしたストーリーはない。しかし、愛する者と共に生きていく決意がとことん掘り下げられていくため、どのエピソードにも“物語”が浮かび上がってくるのだ。

 決してダンスのテクニックを競うのではなく、人間の美しい部分だけをピックアップするのでもないピナの作品の在り方は、見惚れるというよりも、むしろ、親和性を醸成させ共感性を獲得していく。熟成した大人そのものの存在感の魅了されてしまうのだ。ダンスがテクニックの呪縛から解放されていく。

 ヴェンダースの「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」の中にでも度々挟みこまれた、アーティストたちが列に連なり、同じタイミングで歩を一歩ずつ前へと進めながら、映画ではカメラの方に、舞台では観客席の方に向いて、微笑みながら目配せをしていく、個々のパーソナリティが際立ったシーンが印象的だ。口をふくらませたり、手を腰に当てたりする動きを繰り返し行う自然な振る舞いに目が釘付けになる。

 あるシーンでは、舞台前面に一列に並べられた椅子に各国から集っているアーティスト全員が座り、異性に関するエピソードを自国語で一斉に語っていく。順番にマイクが手向けられ、その都度それぞれがフューチャーされていく。まずは、個があることで、世界が成り立っているのだといくことが可視化される。

 男女間に起こる拮抗は、諍いを通り越して、売春的な、はたまた、最初は相手に対する興味から始まるコミュニケーションが、最後には辱めに近い状態にまで陥っていくことにもなる。表面的なことだけを撫でるのではなく、傷付け合い、堕ちていく姿を掬うことで、人間の裏に巣食う衝動をも刻印する。一つのところに納まることなく、触れ幅の広い感情表現や行動を取る、人間の本能をも抉り出し胸に突き刺さる。

 人間関係とは、個対個の関係性が起点となる訳だが、男女間においては、お互い接触し合うことから、より親密な領域へと足を踏み込んでいくことになるのだ。始まってしまった関係性が、一体何処の地点へと向かうのかは、誰も知らないし、本人にすら分かっていないのかもしれない。しかし、確かなことは、自分は此処に居るのだという真実。ピナの作品に触れることは、自己を肯定する洗礼を受けることでもあり、だからつい涙してしまうのかもしれない。人間の本質を突き付けられると、購うことはできないという真実に驚愕する傑作だ。


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