劇評250 

劇場を替えて観てみたいと思う逸品。

 
「昔の日々」

2014年6月7日(土) 雨
日生劇場 17時開演

作:ハロルド・ピンター
翻訳:谷賢一
演出:デヴィット・ルヴォー
出演:堀部圭亮、若村真由美、麻美れい

   

場 : 日生劇場、久しぶりです。このモダンで豪華な造りは、ロビーに足を踏み入れただけで、ワクワク感が増してきますね。劇場内に入ると、既に舞台には美術が設えられています。アクティング・エリアが客席にまで、張り出しています。3人芝居を、大箱・日生劇場で成立させるための戦略なのでしょう。

人 : 1階席は、ほぼ満席です。年齢層は高めですね。50〜60歳代がボリュームゾーンでしょうか。ご夫婦で、あるいは、お友達同士で来場されている方々が多い感じです。

 客席のセンター部分にまで迫り出したステージには、邸宅の居間の様な設えが凝らされている。舞台奥の上下幅一杯には、暖炉やピアノやダイニング・テーブルなど、過去を何かしら彷彿とさせられるような物が据え置かれている。

 開演を前に、暖炉に火が灯る。そして、物語が動き出すと同時に、センターのステージに四方より壁が迫ってきて、瞬く間に背景の物たちは壁の向こうに姿を消すことになる。また、壁のエッジには白色に発光したネオンが仕込まれているため、舞台は、ぼんやりと光を放つラインに囲まれた能舞台の様な光景を呈することになる。この一連の流れが、あっという間に展開されるため、その展開のスピーディーさとモダンな格好良さとが相まって、まずは冒頭より度肝を抜かれることになる。

 グッと舞台に観客の意識を注視させる演出に舌を巻きながらも、日生劇場という大箱で展開される3人芝居という命題が、まずはクリアされていく光景を目の当たりにすることになる。後は、ただただ、実力派俳優たちの演技に翻弄されればよいというお膳立てが仕立て上げられた。

 ハロルド・ピンターが描く世界は、此岸と彼岸との境界線を彷徨いながら、幽玄さを湛えたオリジナリティある世界を構築していく。このある種の難攻不落さが、なかなか手強い強靭さを誇り、取り組む演出家や俳優陣のキャパシティが問われる戯曲であると思う。デヴィット・ルヴォーが日本で上演する演目に、この戯曲を選んだ理由が透けて見えてくる。ステージを能舞台の様に設定したことからも、その事由の一端が垣間見れる気がする。デヴィット・ルヴォーは、日本の観客のイマジネーションを信じてくれているのではないだろうか。

 ある夫婦のもとに、昔、妻と同居していた女性が久し振りに訪ねてくるというシンプルな物語である。しかし、そこで語られる過去の出来事の曖昧さが露見し、虚実が入り混じる記憶も錯綜していく。語られるどのエピソードが真実なのかが定かではなくなっていき、事実であることの意味性が消滅し、自分が覚えていることこそ真実なのだと突き付けられる瞬間と対峙することになる。

 しかし、物語が展開していくに従い、3人は、本当にそこに存在しているのか、もしかしたら観念の中の創造物なのかもしれないという、虚実の境目が定かではなくなっていく。散逸する重なる次元を分け隔てる薄い皮膜を観念が行き来する。その謎めいた展開に脳髄が刺激されていく。

 夫婦を堀部圭亮と若村真由美が、妻の友人を麻美れいが演じていく。所有権に拘る男のエゴと浅薄さを堀部圭亮が軽妙に造形し、夫と友人との間で翻弄されるに従い本性を沁み出させる妻の心の表裏を若村真由美がスリリングに抉り出す。麻美れいは、ソフトさと強烈な自我とを緩急自在に駆使しながら、物語の奥底に潜む真実を垣間見させる強靭な導き手として存在し圧巻だ。

 丁寧に紡がれていく上質な室内劇であることに間違いはないのだが、いかんせん、日生劇場という大箱でこの戯曲を上演するのには、少々無理があったのではないかとも思う。かつてのベニサン・ピットであれば、濃密で密やかな幽玄の世界が自然と立ち現れてきたに相違ない。1000人に向けてハロルド・ピンターの3人芝居を観客に届けるには、もう一つ、何か大きな仕掛けやスペクタクルを施さなければならなかったのではないだろうか。

  デヴィット・ルヴォーの手により、ハロルド・ピンターの傑出した戯曲が上演された機会を幸福に思う。ベニサン・ピットとは言わないが、せめてPARCO劇場ぐらいのキャパの劇場で見直してみたいなとも思う逸品であった。


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