1978年に発表された同戯曲は、清水邦夫が主宰する劇団「木冬社」における上演のために書かれたものであった。盟友である蜷川幸雄に向けて書き下された作品とは色合いを少々異にし、葛藤する自己の内面をしかと内省化しながらも、己の感情を勢いよく叩き突けてくるようなヒリヒリとした緊張感に満ち満ちている。また、そこには、作者の生き様と共に、その時代が孕んでいた熱情のようなものが背景として忍び込んでおり、パースペクティブな奥行を造形する物語世界が構築されていく。
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主人公の俳優は、清水邦夫が自らを投影したのであろうか。女優を引退した妻の役どころは氏の夫人のイメージとも重なって見える。現実を現実として直視できない狂気が描かれ、そこまで追い込まれていたのであろう作者の真情が吐露されたとも見て取れるが、冷静に筆致する技能はやはり異能と言わざるを得ない。
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作品が抱える葛藤は、自らが過去を置き去って疾駆してきた自省の念ともリンクする。過ぎ去った時代を総括しきれていない忸怩たる思いが、狂気へと駆り立てる大きな起因にも成り得ているようなのだ。その重層的、且つ、多面的でもある戯曲の中から、しかと物語の核を掴み出す蜷川幸雄の繊細な手綱捌きに瞠目する。清水邦夫と共に時代を歩んできた氏だからこそ成しえることが出来た成果なのではないか。
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俳優陣は、実力ある才能が隅々に渡るまでキャスティングされた豪華な布陣が敷かれている。物語に聳立する俳優は段田安則。妻を宮沢りえ、故郷に住む姉を大竹しのぶが、それぞれ演じていく。
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現代版演出の「オセロ」上演中の俳優は、役にのめり込んでいるということもあってか、俳優が死の衝動に駆られる瞬間を掬い取っていく。妻を殺めようとする姿は、オセロなのか、はたまた自分自身なのか。此岸と彼岸とを行き来する男の在り方が、冒頭でクッキリと刻印される。満島真之介演じる舞台監督がその瞬間を目撃し間に割って入るが、その後、「オセロ」に扮するシーンなども織り込まれ、ドッペルゲンガー的なエッセンスも振り撒かれ面白い。
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「オセロ」の上演を終えた俳優が、妻の助言で故郷に舞い戻ってくるところから物語は一気に加速する。迷い込んだ床屋で出会う女主人が姉だと後に紐解かれていくのだが、俳優にその意識はない。姉は蒙昧する弟の意識に付き従う体を取っていく。騙す訳でもなく、騙されている訳でもないのだが、無意識下で通底する双方の真情が、ドクドクと呼応し始める瞬間を、観客は固唾を呑んで見守っていくことになる。抑え込まれたマグマが、其処此処で噴出し始めていく。
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強烈なのが、姉を演じる大竹しのぶの眼差しだ。まるで、ハロルド・ピンター作品の住人のように、果たして此処に存在しているのか、していないのかという存在の曖昧さを敢えて明確にはせず、視点の先に誰をも捕らえていない様な空虚さが、本作の台風の“眼”として中心に据えられていく。演じるという次元を超えた、想念の強烈なパワーを放熱し圧巻だ。
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妻を演じる宮沢りえと大竹しのぶとの対峙が本作の見所でもあるが、夫を信じながらも時空のエア・ポケットに迷い込んでしまったかのような妻を、此岸からは超越した存在であるかの様な姉の生き様とは対照的な在り方にて、リアルに造形する宮沢りえの瑞々しさが作品に一服の清涼感を付与していく。
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段田安則は二人の女の間で彷徨いながら、戻りたくない消し去った過去に目を瞑りながらも、決して購えることのない苦悩を滲ませ絶品だ。ベテラン俳優の狡猾さと、青年の青二才振りとを行き来しながらも、行き場を失った舟のごとく自己の世界に酩酊していくしかない様がヒリヒリと痛々しい。
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山崎一の軽妙な狡猾さ、平岳大が醸し出す報われることのない哀切さ、満島真之介が次代へのブリッジの役回りを明晰に表現し、市川夏江、立石涼子、新橋耐子らベテラン陣が、故郷に巣食う思念の残像の残り香をしたたかに体現し、作品にしかとリアルを刻印していく。
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創作する者の苦悩と、果たして自分は時代に据え置かれたのではないかという焦燥感が、戯曲からクッキリと立ち上がり、観る者の胸を掻き毟る。かつて書かれた物語が、現代の人々の心を震わせる普遍性を獲得し秀悦だ。
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