劇評268 

政治的なアイロニーがボディブローで効く、今を生きる人たちに向けてのエール。

 
「ヴェローナの二紳士」

2014年12月13日(土) 晴れ
日生劇場 17時開演

上演台本・演出:宮本亜門
脚色:ジョン・グエア、メル・シャビロ
歌詞:ジョン・グエア
音楽:ガルト・マクダーモット
編曲:ガルト・マクダーモット、
ハロルド・ウィーラー
音楽監督・編曲:前嶋康明
出演:西川貴教、島袋寛子、堂珍嘉邦、
霧矢大夢 / 武田真治、伊礼彼方、上原理生、坂口涼太郎、斉藤暁、ブラザートム、保坂知寿、他

   

場 : 開演時間が上演開始の1時間前なんですね。会場内の売店では、ドリンクを買う人などの姿は殆どありませんね。若い観客が多いからなのか、お財布の紐が堅いのでしょうかね。劇場に入ると既に緞帳は上がっていますが、舞台上には装置は一切置かれていません。漆黒の空間が広がります。

人 : ほぼ満席の状態です。女性比率が圧倒的に多いですね。8割以上を占めているのではないでしょうか。年齢層も若いですね。20歳代がアベレージかな。観劇慣れしていない感じが初々しさを醸し出しています。

 開演時間になると、舞台上からスルスルとスクリーンが降りてきて、日比谷近辺の空撮シーンが映し出された後、カメラは日比谷公園に居る人々を活写していく。そして、その中に居る人々が、其処此処で歌い始める。どうやら、“フリーハグ”を信条とするグループの人たちが、行動を起こしているようであるのだが、その人々は、本作の出演者であることがだんだんと分かってくる。

 公園に集っていた人々と抱き合い、歌うことで幸せを分かち合いながら、皆が一丸となって走り始める。日比谷公園から日生劇場のエントランス、大階段、ロビーへと映像は進み、集団は1階客席へと向かい、ドンと扉が開け放たれると皆が劇場内に、雪崩れ込んでくるという趣向だ。

 12月の17時開演時に間に合うように劇場に入った際に、辺りはすっかり暗くなっていたのだが、映し出されていた映像は、晴れた昼間のシチュエーション。本編導入へのダイナミックさは感じられたものの、サプライズ感は少々薄まってしまったかな。福岡、愛知、大阪での公演もあるとのことなので、毎回、映像が変わるのでしょうね。

 ヴェローナで暮らす二人の若者と従者が、大都会ミラノへと飛び出て巻き起こすコミカルな音楽劇は、シェイクスピアの戯曲が原本に据えられている。1971年初演の本作は、当時の政治的気運や風俗などが織り込まれ、シェイクスピア作品を見事に換骨奪取し、その時代を生きる観客との意識を地続きにさせる仕掛けが施されていく。本作においても、上演台本・演出を担当する宮本亜門はその精神を受け継ぎ、可笑し味の中にも現代社会をシニカルに皮肉る視点を盛り込んでいく。

 プロテュースを演じる座長の西川貴教が作品を明るく元気に牽引していく。プロテュースはミラノへ武者修行へと向かうのだが、ヴェローナに残した島袋寛子演じるフィアンセ、ジュリアから解き放たれ、ミラノ大公の娘に恋してしまう。先に、ミラノへと出ていた同郷のヴァレンタインは堂珍嘉邦が演じるが、奇しくも同じ女性を好きになっていた。その女性シルヴィアは霧矢大夢が演じている。その4人の恋のさや当てを中軸として物語は展開していく。アーティストとしての個性と、歌を生業とする演者たちの魅力が存分に生かされ見事である。

 音楽を担うガルト・マクダーモットが手掛けた「ヘアー」のフリーダムを希求するスピリッツが、物語展開や音楽に確実に影響を及ぼしていると思う。多分、当時、其処此処のストリートで勃発していた様なムーブメントが、そのままエピソードとして作品に持ち込まれているのだ。冒頭の“フリーハグ”の演出も、作品の奥底に流れる通低音にリンクする。

 作品が抱合するあらゆるエレメントが、宮本亜門のエンタテイメントに徹する演出の手綱捌きによって、様々な人々の思いを収焉させ、見事に昇華させていく様は心地良い。

 ミラノ大公を演じるブラザートムの、肩の力を抜いた洒脱さと尊大さが、体制側が孕む膿をカリカチュアライズして染み出させ惹起してしまう。プロテュースのフィアンセ・ジュリアの侍女を保坂知寿が演じるが、ベテラン陣がしっかりと脇から支えるこの布陣は、作品にドッシリとした安定感を与えていく。

 堅苦しいことは一切抜きにして、出演者が皆弾けまくる楽しさに満ち満ちたハッピーな場面が続く展開は、どのような人々にも喜びが享受出来る様なサービス精神に徹していている。但し、政治的なアイロニーなどを、時折チクリと差し込むアクセントがボディブローとして効いてくることにより、混沌とした今を生きる人たちに向けてのエールがスクッと際立っていく。余談ですが、アフター・トークでのぶっちゃけ話、結構面白かったです。


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