劇評293 

普遍的な若者の意識を的確に捉えた寺山修司の原典に、藤田貴大が現代の意気を吹き込み見事に換骨奪胎。

 
 
「書を捨てよ町へ出よう」

2015年12月12日(土) 晴れ
東京芸術劇場 シアターイースト
18時開演

作:寺山修司
上演台本・演出:藤田貴大

出演:村上虹郎、青柳いづみ、
川崎ゆり子、斎藤章子、召田実子、
吉田聡子、石井亮介、尾野島慎太朗、
中島広隆、波佐谷聡、
船津健太 / 山本達久(ドラマー)

場 : 東京芸術劇場地下1階には小劇場2つが並んでいますが、左側がシアターイースト、右側がシアターウェストです。両劇場の内、何故か、イーストへの来場率が高いです。劇場内に入ると、舞台上はシルバーな色合い。イントレなどがステージ上に置かれており、着替えるのであろう衣装も脇に吊るされています。上手にドラムが乗った盆が置かれています。

人 : 満席です。20歳代だと思われるお若い観客比率が高いですが、年配の業界風なかたがたの姿も多くお見受けします。いずれも演劇に一家言ありそうな方々が集っている感じです。

 寺山修司は「書を捨てよ町へ出よう」というタイトルで、評論・エッセイ、舞台、映画を編み出した。それぞれのジャンルの作品たちは、題名は同一だとしても、その表現手段は様々である。本作は演劇な故、舞台版をベースに置くのかと思いきや、藤田貴大は映画版を基に物語を再構成していく。

 寺山修司が1971年に発表した映画版「書を捨てよ町へ出よう」は、悶々としたフラストレーションを抱えて生きている自分を否定し、今の生活から脱出したいと願いながらも、肉親の縁を断つことが出来ない若者の焦躁をいや応なしに観客に叩き付け、決して避けることが出来ないインパクトを与え白眉であった。

 街頭の其処此処に、言葉を書き記していく斬新な表現などは、昨今の映画作品でも踏襲されており、寺山修司の才気が後進に影響を及ぼしていることを再認識させられることになる。パゾリーニのアナーキな精神を想起とさせられると同時に、フェリーニの「サテリコン」の売春窟のイメージの踏襲なども感じられる同時代性に感性が刺激された。

 藤田貴大が、このあまりにも限定されて描かれた1970年代の“時代性”を、どの様に現代に翻案していくのかというところが、本作最大の興味の見どころであり、焦点でもあったと思う。舞台上に据え置かれた様々な形状のイントレが殺伐とした雰囲気を醸し出しつつも、物語が展開していくに従い、いつものマームとジプシーの目くるめく場面転換の役割を担うことになるが、この設定の時点で既に藤田貴大は自分の世界観に作品をグッと引き寄せていくことになる。

 但し、展開される物語は、映画のストーリーをほぼ踏襲していく。しかし、眼球を解剖し視覚の仕組みを説明してく冒頭のシーンから、これから作品を“見る”観客に自身の在り方を問うていく意識付けを行う藤田貴大の発破に思わずほくそ笑む。寺山修司も、様々なエピソードを編集して繋いでいくという手法を取っていたが、働かない父、貧しい家庭、兎に固執する妹、祖母の介護施設問題、10代若者のスポーツに性衝動などを原典から抽出し、藤田貴大独自のオリジナリティを持って筆致していく。

 主人公となる村上虹郎が17歳であることが共演者によって語られ、現代の若者を巡るエピソードであることが明確に示されるが、1970年代と現代の若者とが抱え込む鬱屈が、意外にも相似形を示していることが面白い。しかし、双方の肌感は違っていて、かつてはヒリヒリとした焦りの中に追い込まれていた気がするが、今は希望を見出せない諦めにも似た閉塞感に覆われているという状態に置かれているのだと気付かされることになる。

 現状から脱出したいという希求は薄味だが、黙って甘受する現代の若者のその様はあっけらかんとしていて明るささえ感じられるから面白い。主人公の妹が乱暴されるシーンの表現などは深刻さからは程遠く、まるでモダンダンスのような軽やかさで描かれる。このリアリティの欠落した描かれ方が、今の時代なのだと感じ入る。肉体と心情とが分離しているため、観念的な方向へと意識は向かっていくのだ。そこには、他人の心身の痛みを感受する余白はあまりなく、あくまでも自分本位な傾向に人の意識は向かっているような気がしてならない。

 又吉直樹や種村弘が映像で登場するが、かつて自分が生きてきた若かりし頃の話を断片的に紡ぎ微笑ましい。また、ミナ ペルホネンの衣装が時代の軽やかさを纏い、ファッションショーのシーンも設けられているが、楽しさというよりもささやかな虚勢とも見てとれ、語らぬ自己主張の仕方がユニークだ。山本達久のドラムは、変にアジテートすることなく役者の体内リズムに添うように鳴り響き心地良い。

 時を経ても変わることのない普遍的な若者の意識を的確に捉えた寺山修司の原典に、藤田貴大は現代の意気を吹き込み見事に換骨奪胎したと思う。そこに立ち現われてきたのは、未来を見出せない若者像。それをただ現実だと受け止めるか、冷静に観察する批評精神を持って捉えていくのかは、観る人次第であるような気がする。藤田貴大が投げたボールは、観客の手に委ねられたのではないだろうか。


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