劇評304 

言葉と演技を余すことなく堪能出来る上質な作品として記憶に残る逸品。

 
 
「コペンハーゲン」

2016年6月25日(土) 晴れ
シアタートラム 18時30分開演

作:マイケル・フレイン
翻訳:小田島恒志
上演台本・演出:小川絵梨子

出演:段田安則、宮沢りえ、浅野和之

場 : シアタートラムは駅近で便利ですよね。キャパも200席程なので、混雑もなくスムーズに入場出来るのでストレスはありません。シスカンパニー公演なので、パンフがお安いのが有難い。700円でした。劇場内に入ると舞台装置が設えている光景が、薄明りの中うっすらと見えています。

人 : 満員御礼です。客席最後方にあるスタンディング・チェアーのトラムシートも満席です。お客さんは男女半々、落ち着いた年配層が多い感じです。

 マイケル・フレインの戯曲が、秀逸である。終始、ワクワクとしながら物語の行方を堪能出来る楽しみに満ち満ちた、知的興奮を抱合した極上のエンタテイメントとして成立している。

 1941年、コペンハーゲンに住むユダヤ人ボーア夫妻を、ドイツ人ハイゼンベルグが訪れた、その1日を巡る物語である。日本初演時も拝見しているが、同作は、登場人物たちの人種間問題、モラルの在り方、何を選択するべきかの決断など、1941年という時代を生き抜くことのヒリヒリとした困難さが、より前面に出ているような気がする。

 約2時間もの間に、たった3人しか登場しない作品であるが、スターが持つ旬な輝きと、永年に渡り蓄積されたスキルとを併せ持った俳優が居並び壮観だ。ドイツの物理学者ハイゼンベルグを段田安則、師と仰ぐデンマークの物理学者ボーアを浅野和之、その妻マルグレーテを宮沢りえが、三つ巴でガッツリと組んだ布陣が、本作の肝となっている。

 物語は、既に死した3人の独白からスタートする。1941年の3人が邂逅した1日、その時、一体何が起こったのかと過去を回顧していく。舞台は時空を軽々と超え、3人の意識を俯瞰しながら浮遊してく視点が、妙に可笑しく心地良い。

 場は、クルクルと変転していく。登場人物同士の会話や、思いを吐露する独白、状況を説明する独白など、言葉を投げ掛ける相手も瞬時に変わっていく。今がどの時代のどの状況なのかをしっかりと把握しなければならない観る者に課せられた緊張感が、脳内をヒリヒリと刺激してくる。

 これは演じ手たちもパワーを全開にして観客と対峙しなければならないため、この上ない微細な表現力が求められるのだと思う。その過酷とも言うべきシーンの連続を、違和感なくスムーズに観ることが出来るのは、演出家が導くアプローチに、俳優陣がしかと応えているからに相違ない。ナチュラルに見えるその水面下では、俳優陣を始めとする本作に関わる人々の才能とスキルとが見事に融合し、完全に昇華し得ている。

 演出の小川絵梨子は、難解とも自由に解釈出来る余地が満載とも取れる本戯曲から、そこで起こる事象に左右され過ぎることなく、あくまでもそこで生きる人間たちの心の襞を、細心の注意を払って抽出していく。戯曲を隅々まで検証し、3人の一挙手一投足を徹底して分析していくため、言動が全て腑に落ちるのだ。秀逸なアプローチであると思う。

 段田安則演じるハイゼンベルグが、浅野和之演じるユダヤ人である恩師ボーアを慕いながらも、ドイツ人である出自を誇るアンビバレンツさが、登場人物たちの意識を混沌としたカオスへと誘っていく。抽象的な概念を具象に転じてリアルに表現し、人間の哀切が滲み出る。戯曲に翻弄されない強靭さを持ち得て、見事である。

 浅野和之が演じるユダヤ人の物理学者ボーアは、ハイゼンベルグが訪れる前より、既に彼には懐疑的だ。一体、目的な何なのであるのかと思いを巡らせているのだ。ハイゼンベルグに対する情と、現在の立場との狭間を逡巡していくが、核心に迫る物語の周縁は曖昧さを増し、なかなか真実を現さない。しかし、そんなもどかしさを氏の軽妙な資質が、深刻さから物語を救っていく。

 宮沢りえ演じるマルグレーテは、2人の物理学者を客観的に論じる立場を貫くも、徐々に時空が跋扈する迷宮の世界の住民へと嵌っていく。彼女の存在があったからこそ、奥行きある静謐なる深淵さが生まれたのだと思う。宮沢りえは、謎を謎めいたまま提出するため、安易な謎解きに堕さないフェーズをキープし目が離せない。

 観客の創造力を信じる創り手の意気に心して臨むことが出来る、台詞劇であり、ミステリーであり、何よりも時代に翻弄される人間の悲哀を滲ませたドラマとして秀逸である。言葉と演技を余すことなく堪能出来る上質な作品として記憶に残る逸品である。


過去の劇評はこちら→劇評アーカイブズ