劇評318 

三谷幸喜と市川猿之助との格闘技は、昭和の軽演劇を現代に甦らせ見事。

 
 
「エノケソ一代記」

2016年12月17日(土) 晴れ
世田谷パブリックシアター 18時開演

作・演出:三谷幸喜

出演:市川猿之助、吉田羊、浅野和之、
山中崇、水上京香、春海四方、三谷幸喜

場 : ロビーでの物販はパンフのみ。シスカンパニー公演のパンフはコンパクトにまとまられ、いつも1000円という価格設定が有難い。劇場内には案内人の方が随所に配されています。

人 : 満席で、当日券も出ているようです。年齢層のアベレージは結構高いです。50歳代が中心になりますでしょうか。演劇を見慣れた方が多い感じの客席です。

 「真田丸」後初の、三谷幸喜の新作舞台である。テーマは「エノケソ」。決して「エノケン」ではない。「エノケン」こと榎本健一を名乗った偽物が跋扈したと言われている昭和初期の時代が、本作の舞台となっている。この設定自体がまさに人を食っている。

 “本物になりきれなかった偽物たち”は自分好みだと語る三谷幸喜の視座は、やはりコメディにその根幹を据えているのだと思う。かくあるべき姿と現実との差異に可笑し味を醸し出し、さざ波のように物語の中へと伝播させていく顛末を嬉々として描く技は、まさに三谷幸喜の真骨頂だ。

 また、作品のスタイルは、かつての軽演劇のように歌あり踊りありの娯楽性が満載で、榎本健一が生きた時代のエンタテイメントを蘇らせようとする意気をしかと感じ取る。誰が観ても分かりやすく、難解さなど微塵もないのだが、少し捻じれた登場人物たちの生き様が、観る者の心に妙なしこりとなって残っていく。

 その捻じれた端緒と端緒とが擦り合うことで、そこに物語が生じる。そのスリリングな展開が、緊張の糸を張り巡らせる。エンタテイメントの根幹には精一杯に生き抜く人間の哀感が染み入り、演劇という絵空事に、しっかりとした人間観察の上に成り立ったリアルさを付与していく。

 エノケソを演じるのは、市川猿之助。歌舞伎以外への世界にも果敢に挑戦し続きているが、三谷幸喜との手合わせはしっくりと馴染み違和感がない。三谷幸喜は、市川猿之助の中から、非常に土着的な日本のスピリットを掴み出していく。そして、その和の感性を、モダンに斬り拡げる地平が、昭和の芸能の世界へとシンクロする。

 はたと気付くが、市川猿之助は昭和顔の昭和体型なのかな、とも思う。中心に聳え立つ役者が放つ資質が上手く活かされているため、物語に余白を作らないという効果を発していく。三谷幸喜の計算づくが、全てのパーツがピタリと嵌る心地良さ。

 エノケソの妻を、今や旬の女優、吉田羊が演じていく。「国民の映画」初演時2011年には、まだまだ一般的には知る人は今よりは多くなかった吉田羊であるが、その作品を機にメキメキと頭角を現してきたという感がある。市川猿之助とガッツリと組み従い、不肖な夫を支える妻の愛と冷静な厳しさを、柔らかに表現し、作品に優しいニュアンスを醸し出す。

 三谷作品の常連である浅野和之の存在も、また、ふざけた役どころだ。その名も、蟇田(ひきた)一夫と名乗る一座のメンバーだ。口頭だけで聞くと、菊田一夫と聞き間違えてしまうのを完全に認識した確信犯を飄々と演じ、可笑し味を滲ませる。間違える方が悪いのだと言わんばかりの押し出しに、ついつい折れてしまう回りの人物たちのリアクションも、また、楽しだ。

 だが、しかし、何と言っても、三谷幸喜がこの布陣の中で、役者として登壇しているのがトピックだ。しかも、古川ロッパならぬ、古川口(くち)ッパというまがいものをいけしゃあしゃあと演じ、当代一流の歌舞伎役者の市川猿之助と対峙する。これが、なかなかイケているのだ。軽業師のような軽妙さが胡散臭さを増長し、観客との共感を繋ぐ存在として異彩を放つ。

 山中崇は、かつて「ベッジ・パートン」で浅野和之が演じたロールにも似て、登場する度に全く違う人物として現れる様が、間髪入れずに笑え、何故か作品に安心感を注ぎ込む。一座になくてはならない存在の春海四方は、作品にスパイスの様なアクセントを刻印する。一座に入りたい女を水上京香が担い、真っ直ぐなその思いを素直に表現し、次代の吉田羊と成り得るのか、期待も高まるところだ。

 三谷幸喜と市川猿之助との格闘技は、昭和の軽演劇を現代に甦らせて見事であった。楽しかったと感じる舞台を観終えた後の幸福感の余韻に浸れる逸品であった。


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