劇評31 

野田秀樹印の唯一無二のパラレルワールドは爽快!

「走れメルス
−少女の唇からはダイナマイト−」




2004年12月4日(土)晴れ
シアターコクーン 19時開演

作・演出・出演:野田秀樹
美術:加藤ちか
照明:小川幾雄
衣装:ひびのこづえ
出演:深津絵里、中村勘太郎、小西真奈美、
河原雅彦、古田新太
場 : 何かが壊れた後のシーンのような、瓦礫が積み重なった廃墟の装置が我々を迎い入れる。どちらかというと、狭雑物は省いた舞台が多いという印象の野田演出であるが、野田演出の意図に沿いながらも拮抗するプランを叩きつけた「NODA MAP」初参加の加藤ちか氏の大胆さとそれを受け入れた野田氏に、新展開を予感する。新たな戦力、参戦である。
人 : 満席。様々な人々が集う。ロビーに滞留することなく劇場に来慣れたような人が多い印象。芝居が始まると、シンとして舞台を見守り凝視する。この日を待っていたのだという熱い空気感が漂う。

 一面荒れ果てた瓦礫の山の装置がゆるゆると天井に上り、舞台上にまで引き上げられると、まるで天空を覆う屋根のように瓦礫が舞台を見下ろすこととなる。ステージ舞台正面・上下には布が垂れ下がり、登場人物はその合間から出入りすることとなる。このいきなりのスペクタクルシーンに少し驚きつつも、これからの展開に期待が膨らんでいく。物語が始まる。



 28年前に書かれた戯曲であるが、2004年の今を持ってしても「新しい」と感じるのは何故であろう。当時の風俗なども織り交ぜられており、風化する可能性は秘めてはいるものの、時を経て証明されたのは、野田秀樹という作家のモノやコトを選び取る審美眼が極めて優れていたということである。「古びないもの=真実なもの」を掬い取る類まれな才能があったということだ。才能は時に開花もするが、天賦の才能は最初からあるものなのだ。


 言葉を紡ぎながら幾重もの状況が重なり合い、それが洪水にように寓話となって迸り出てくる。駄洒落の言葉遊びを繰り返しながら、その表層言語はコトの深淵にまで深く分け入り、真実を掴み出そうとしていく。そういった行き来をする中、登場人物は「こちら」と「向う」の両方にアイデンティティを持ちながら、虚実の重ね合わせの上に成り立つ現実というもののありかを探しているかのようだ。


 言葉がそこかしこで跋扈するが、その言葉に根拠というリアリティを含み自らの血とせざるお得ないという過酷な課題を、豪華な演技陣は難なくクリアしている。


 透き通るような存在感の深津絵里は野田演出4度目であるが、クルクルと展開する野田ワールドの中において、いつも強烈な魅力を放っている。饒舌にしゃべればしゃべる程、彼女の中の清楚な叙情性が立ち昇り、彼女の目線の先にある何か、「明日」とも「夢」とも思えるような何か、「希望」のようなもの、を何故か共有してしまい、いつの間にかその気持ちに共鳴しているのだ。中村勘太郎は、下着泥棒に見えない品の好さから青春ドラマのような爽やかな印象を残すという、アクの強い役者たちの中におけるオアシスのような存在感が逆に求心力となって、スッと主役として浮かび上がっていた。河原雅彦のアクがパロディとしてカリカチュアライズされることである種の普遍性を持ち、また、今の小劇場界の座長たちが多く参加するこの公演にて彼らを率いる親分的存在の役柄の古田新太は中軸となり異彩を放っていた。小西真奈美は、「赤鬼」に続いての続投であるが、身のこなしが軽くなり余裕が出てきた感じで、透明感ある素直な魅力が活かされていたと思う。

 映像を駆使するのも野田演出としては珍しく、新たに様々な才能を取り入れながら、風圧の感じられない今の演劇界に対して、野田秀樹が発破をかけたような気がする。自ずから斬り開きトップを独走しながらも、後続に対してのアジテーションを仕掛けているのだ。


 日本の演劇界で、野田秀樹以外、誰にも真似出来ない種類の公演である。「野田秀樹」という芝居のジャンルがある、ということだ。