劇評338 

今、此処で起こっている真実を見据える信念を持っているか否かを観客に問う衝撃作。

 
 
「危険な関係」

2017年10月9日(月・祝)晴れ
シアターコクーン 17時開演

作:クリストファー・ハンプトン
翻訳:広田敦郎
演出:リチャード・トワイマン
美術・衣装:ジョン・ボウサー

出演:玉木宏、鈴木京香、
野々すみ花、千葉雄大、青山美郷、
佐藤永典、土井ケイト、新橋耐子、
高橋惠子、冨岡弘、黒田こらん

場 : 劇場ロビーに集うお客さんから、そこはかとなく熱気が漂っているんですよ。この賑々しさ、これから芝居を観るワクワク感を感じさせてくれます。劇場内に入ると。黒い緞帳が舞台に降りており、一切無の状態のまま開演を待つことになります。

人 : 満席です。当日券も販売されています。2階席には、立ち見のお客さんもいらっしゃいます。妙齢の女性比率がやや高いですが、男性客に姿も結構お見受けします。玉木宏さんファンの方が多いのかな。

 コデルロス・デ・ラクロの原作をクリストファー・ハンプトンが戯曲化した本作「危険な関係」、大好きな戯曲である。暇を持て余す貴族が色恋沙汰をゲームのように弄ぶ、その刹那的な儚さに何故か心惹かれてしまうのだ。原作小説は、これまで何回か映画化もされている。この物語が放つ強力な魔力は、観る者を魅惑して止まないのだと思う。

 そんな魅惑を放つ物語を立ち昇らせるには、体現する俳優陣も魅力的でなければならない。作品の中心に聳えるのは、玉木宏と鈴木京香。見目麗しく、大人の色香を放つこの二人の磁力が、作品を強力に牽引していく。

 RSCで研鑽を積んだ演出家リチャード・トワイマンは、登場人物たちの心に巣食う心情を切っ先鋭く掬い上げながら、物語に時代性を照射させて見せる。コデルロス・デ・ラクロが生きていた時代、そして、クリストファー・ハンプトンが本作を書き上げた時代と現代とを、クロスオーバーさせていくのだ。原作が執筆されたのはフランス革命前のきな臭い時代、1782年。戯曲が著されたのはサッチャー登場後の社会的成功を希求する価値観転回のうねりが跋扈した、1986年。これからの時代の行く末が見え難い社会状況は、まさに、現代日本とも合致するようなのだ。

 作品全編を通して不穏な不安定さが漂う空気感が、そこはかとなく覆っているのが印象的だ。本音と建て前とを上手く使い分けていると思い込んでいる登場人物たちの、表層的な華麗な側面を押し上げているのが、ジョン・ボウサーが担う美術と衣装だ。

 室内の設えが多い美術であるが、襖の様な横引き戸を多用して場面転換を図るそのアイデアや、その向こうに広がる外景が日本庭園であることから、日本で上演されることを大いに意識していることが明らかだ。現代美術の様にソリッドでモダンな造りなため、和の空間というよりも、ハイソなクラスの人々がジャポネスクを取り入れた内装にも見え、国や時代を超越する効果を発していく。

 衣装も、また、セレブが纏うであろうハイ・ブランドのデザイン・テイストが反映され、舞台衣装の概念を超越している。衣装が、俳優陣を憧憬する存在に押し上げる役割を担っていく。

 鈴木京香の華やかな存在感は、「危険な関係」の肝となる。男たちが牛耳る社会の牙城を切り崩す勢いで、果敢に恋愛ゲームを仕掛けるメルトゥイユ侯爵夫人を説得力を持って演じていく。ゲームのイニシアチブは決して手放さないという意思を貫く強固な姿勢が、女性の立場の弱さを、逆に浮き立てることにもなる。

 自分の回りにいる女性たちを翻弄しているかに見えるヴァルモン子爵を、逆に弄ばれてもいたかもしれないという曖昧な関係性を説得力を持って玉木宏は表現していく。飄々とした態度を取りながらも、悲劇へと堕ちていく男を演じる玉木宏に漂う哀感は、作品に憂いを付け加えていく。

 恋のシーソーゲームの果ての様々な悲劇を経た後、脇を支える重鎮、新橋耐子、高橋惠子と鈴木京香が居並び、日常の延長であるかのように会話を交わすオーラスが衝撃的だ。その傍らには、前のシーンで死した玉木宏が血を流して倒れたままなのだ。

 覆い隠された真実、裏腹な言動、崩壊する価値観、忍び寄る死。二重三重と複雑に織り成された真実を前に、何事も無かったかのように振る舞い、生き続けていく女たちに、逞しさすら感じてしまう。本作は、今、此処で起こっている真実をきちんと見据える信念を持っているか否かを観客に問う衝撃作に仕上がったと思う。


過去の劇評はこちら→劇評アーカイブズ