劇評355 

松坂桃李が造形する人間像が作品に血肉を付与し、ヒリヒリとした刺激を与えてくれる逸品。

 
 
「マクガワン・トリロジー」

2018年7月21日(土)晴れ
世田谷パブリックシアター
17時30分開演

作:シェーマス・スキャンロン
翻訳:浦辺千鶴
演出:小川絵梨子

出演:松坂桃李、浜中文一、趣里、
小柳心、谷田歩、高橋惠子

場 : 劇場内に入ると、舞台の緞帳は上がっているのですが、舞台上は漆黒な状態なため、はっきりと舞台美術を伺うことは出来ません。

人 : ほぼ満席です。当日券も出ています。お客さんは、松坂桃李ファンと思われる30〜40歳代の女性観客が多いですが、男性客も2〜3割と想像よりも多く来場しています。

 2014年、ニューヨークの「第一アイリッシュ・フェスティバル」という演劇祭で初演された同戯曲を、ニューヨークの書店で本作のプロデューサーが偶然手に取ったことが、今回の上演に繋がっているのだという。発掘された本作は、オリジナリティ溢れる作品世界が造形され、ぞくぞくするような刺激を与えてくれる。

 トリロジーとタイトルに冠されているように、本作は3部作の体裁をとっている。「狂気のダンス」「濡れた背の高い草」「男の子たちが私の前を泳いで行った」と題された各章にIRAの青年マクガワンが縦横無尽に跋扈するのが共通項であるが、それぞれの章で展開される世界は全く別ものになっている。それが面白い。

 「狂気のダンス」の舞台は一般に人は入ることが出来ないIRAの隠れ家パブ。何度もうるさく店舗のブザーを鳴らし、入店させろと恫喝する御仁がマクガワン。気の弱いパブのスタッフは、イヤホン越しでのマクガワンの舌禍の猛攻に押し切られ入店させてしまうと、そこに現れた男はキレッキレのIRA戦士。演じるは松坂桃李だ。

 松坂桃李が上手い役者であることは認識してはいたが、このマクガワンという役柄を造形したスキルとパワーには度肝を抜かれた。完全にイカレているんですよ、このマクガワン。振れ切っている、ヤバい奴。何で此処に来たかというと、内通者がいるからだということが分かってくる。その対象者に、マクガワンの容赦のない鉄槌が下されていく。

 観ているだけなのですが、松坂桃李演じるマクガワン、かなりの怖さ。もうこれ以上暴れないでくれと、心の中で願ってしまう程だ。但し、嫌悪感は何故か感じられない。それは、松坂桃李の甘いルックスにも遠因があるのだと推察するが、マクガワンは彼なりの正義があって行動をとっていることが納得出来るからなのだとも思う。視点を変えてみると、観客の鬱憤をマクガワンが代理で果たしてくれていると言えないこともない。観客の共鳴を呼び起こす、この悪漢。松坂桃李から目を離すことが出来ない。

 打って変わって「濡れた背の高い草」は、マクガワンのまた違った側面がフューチャーされる。アイルランドの首都ベルファストから遠く離れたキャロウ湖に、趣里が演じる知り合いの女と共に車で降り立ったマクガワン。マクガワンはその女にかつて恋焦がれていたようでもあるのだが、IRAの規則を破ったが故、制裁を加えるために同地に赴いたようなのだ。

 しかしその罪というのが、死に値するものなのかというと、そこは疑問だ。罪状と人情とに殺人マシーンであるマクガワンは絆されかかり、マクガワンの人間的な心情が薄っすらと垣間見られる。1幕とは様相を異にする、優しいとも弱いとも言える人間の側面が活写されていく。趣里の毅然とした在り方は、松坂桃李の存在感に引けを取らない強烈さを放ち、印象的だ。

 そして3幕は「男の子たちが私の前を泳いで行った」。マクガワンの生き様の源泉を更に遡り、認知症を患い老人施設に入所している母の下に、夜半、忍び込むマクガワンという設定だ。マクガワンを自分の弟だと思い込む母との噛み合わない会話は、シュールで可笑しく笑いを誘う。

 母を演じるのは高橋惠子。百選練磨のベテラン女優の掌で、松坂桃李が上手く転がされている風にも見える光景に、何だか妙な安心感を覚えてしまう。一端の男でも、母の下では子どもへと回帰してしまうようなのだ。年老いた母を、色香を漂わせながらもリアルに造形する高橋惠子が放つオーラに、思わず惹き付けられてしまう。

 マクガワンという男の生き様を通して人間の弱さやハッタリが浮かび上がり、生きていくためには、一体、何をファースト・プライオリティに据えればよいのかということを、ついつい熟考してしまう。相反する人間の心情の襞に触れる繊細さと、暴力的な言動とを融合させた松坂桃李が造形する人間像が、作品に血肉を付与していく。ヒリヒリとした刺激を与えてくれる同作であるが、それは松坂桃李の存在に負うところが多いのだと思う。また、観てみたい。是非、再演を希望したい作品である。


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