劇評54 

紛れも無い傑作の誕生。

「タイタスアンドロニカス」





2006年4月22日(土)晴れ
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
午後6時開演

演出:蜷川幸雄
出演:吉田鋼太郎、麻美れい、小栗旬、
   真中瞳、壌晴彦、鶴見辰吾


場 : ロビーには衣装や小道具が置かれている。会場に入ると、登場人物たちが、舞台上で思い思いに動いたり発声練習をしたりと、舞台裏を見せる手法は、前回そのままである。
人 : 満席。年齢男女比もバラバラな感じ。しかし、女性陣は、やはり小栗くんファンが多いのであろうか。幕間のトークは小栗くんの話題に華を咲かせている。

 ラストシーン、少年ルーシアスがエアロンと王女タモーラとの間に生まれた肌の黒い不義の子を抱え慟哭するシーンに涙した。バッタバッタと次々に登場人物が死す中、この幼な子の嘆きは果てしなく深いが、暴力の連鎖を断ち切る、未来へとつながる希望をそこに見出していく。イコンのように焼き付けられたこのラストは、シェイクスピア作品の中でも、一番残忍な作品と評される本作に、現代の情勢を重ね合わせるがごとく、その殺戮の真意を剥き出して暴いてみせる。




 再演を重ね、更に緻密にパワーアップされた本作は、観る者の心を抉る傑作として再び甦った。基本的な演出プランは前回と同じだが、役柄に対するアプローチが更に細かく、流麗な台詞を朗々と謳い上げながらも、業とか欲とか悲しみとか、人間の本能に近い感情をも同時に存在させる術を持ち得ている。故に、将軍であっても、王であっても、ひとりの人間なのであり、そんな何かにもがきながら生きる市井の人々のひとりとして存在するため、台詞の応酬は、人の奥深い部分にまで到達出来るのだ。




 2人の役者が入れ替わることで、作品が、更に輝きを増した。小栗旬は、近寄ると殺気で切れるナイフのような研ぎ澄まされた狡猾さで、より鋭利な感覚を付加し、壌晴彦の包容力は、殺戮をも受容し、物語を見守る語り部のように優しく物語を包み込んでいく。




 吉田鋼太郎は、父として子を思いながら誉れ高い将軍の哀れと復讐の業火の心を演じ分け、麻美れいは、母であることをしっかりと軸に据え、女王という立場の優遇にもひれ伏さない復讐の刃を終始一貫持ち続け決してぶれることがない。真中瞳の可憐さは依然変わらぬが、生き延び加害者を告発していく過程に強烈な意志が加わった。物語の第一声は、鶴見辰吾で始まるが、育ちのよい表向きとは裏腹の、空虚な内面を埋める嫉妬心に人間臭さを垣間見る。誰もが、父であり母であり子であるという、普遍的な事実を拠りどころにしているため、観る者の心の何処かが共鳴してしまう。何か故あって、殺戮を繰り返すのである。子をかばい、親を思う、その気持ち。そこが抽出されているので、心打つ作品に生り得たのだと思う。




 真っ白な舞台が効果的だ。また、流す血は、くもの巣のような赤い糸で表現されこの上なく美しいが、この白と赤の強烈なコントラストの提示が、この物語をリアルに見られることから遊離し、一種寓話化された伝承の顛末でも見るかのように、メッセージのエッセンスを浮き彫りにする効果を奏している。




 グレート義太夫演じる道化の衣装は半纏に下駄である。また、ディミートリスとバシエイナスが本性を隠してタイタスを訪ねる際の有り様は、文楽の人形のような出で立ちにも見える。可笑しく東洋をアクセントとして配置する目利きも、この強固な美学に彩られた作品世界をひとつの方向に終焉させないほころびにように思え、その異要素が、また作品をよりふくよかにしていくのだ。




 ローマ建立の起源であるカピトリーノの雌狼が、暴力の起源は国家建立にありとでも言いたげに象徴的に舞台上に終始鎮座し、ことの行く末を見続けていた。ローマの時代から、現代へと放射されるこのメッセージは辛く痛いが、思い当たる節が多いこの今の世の中を自覚し、しかと受け止めることとなった。




 シェイクスピアのテキストは、蜷川幸雄の手を経て、この現代に見事に息吹を甦らせた。
紛れも無い傑作が誕生したと思う。