劇評76 

どう生きてきたかを問い突きつけられる、リアルで秀逸な集団悲劇。

「船上のピクニック」






2007年6月24日(土)晴れ
彩の国さいたま芸術劇場 小ホール
午後2時開演

作:岩松了 演出:蜷川幸雄
出演:さいたまゴールド・シアターの方々
場 : 客席は中央の舞台を見下ろすように、3方を囲む馬蹄形に設えてある。開場時より舞台はオープンになっており、どうやら客船のデッキのようなセットである。録画用のカメラ部隊も数名会場内に陣取っている。
人 : 満席。どうやら、出演者のお知り合いと思しき方々が多い感じだ。開場時、休憩時などには、あちこちでご挨拶や談笑している姿が多く見受けられた。微笑ましい。

 さいたまゴールド・シアター第1回公演である。蜷川幸雄が提唱した、55歳以上の団員による演劇集団である。確か、1年位前より、レッスンを開始しているはずである。全くの未知な集団の公演である。何の先入観もなく、開幕を待った。




 舞台は、役者たちが、ステージである客船のデッキに、ふらりと、姿を現してくることで始まっていく。1年の訓練を積んだ者をもはや素人と呼ぶことは出来ないが、気負いのない自然な存在感が、とてもリアルに感じられてくる。無名であるがゆえの特権であろう。まるで、その人物そのものがそこに実在しているかのような、錯覚に陥ってしまう。役者と役柄が混然としていくのだ。





 集団を描いては右に出る者がいない蜷川幸雄の繊細な指導の賜物であろうか。役者ひとりひとりが、確かにそこに何らかの思いを抱き悩みながらも、確実に存在しているのだ。それぞれの行動の裏付けが、どの役者の中にも明確にあるため、表層的な浅薄さはない。むしろ、今までに蓄積されてきた人生の重みを最大限の武器として、その実人生と戯曲の話とを絡ませながら、独自の世界観を作り上げているのだ。このメンバーであるから成し得たオリジナリティに溢れている。





 岩松了の戯曲も素晴らしい。リストラされたホテル従業員を乗せた客船は、彼の地で建設中のリゾートホテルに向かっている。皆は、その地で再雇用されることになっている。しかし、本当にそこで働くことが出来るのか? また、途中、漂流する難民を助け引き上げるが、些細な行き違いが広がり、船上には不穏な空気が流れ始める。シルバー世代の行方を案じる寓話が、リアルな肉体を借りることで、現実の話のような様相を帯びてくる。また、言葉の通じない難民が登場することで、視点は世界に広がり、ある世代の憂いを飛び越え、生きていくことの奥底にある普遍的な悲しみを炙り出していく。




 皆の間で、少しずつ気持ちの行き違いが広がっていく。いじめではないが、異分子であると認識された者が仮想敵とされ、糾弾の標的になっていく様は、人間の本質を暴いているようで、その暴力性に思わず愕然としてしまう。特に、終章に向けて、船上の人々と難民との間には、決定的に埋められない溝が出来ていってしまう。こういう時の人間の思考の怖さというものも、実感した! 相手を敵であると思った瞬間より、相手の全ての言動への理解度は、ゼロに帰してしまうのだ。敵のことは、理解しない、ということなのだ。今、世界の、そこ此処で起こっている、様々な紛争が、アタマをもたげてくる。戯曲の内に仕組まれた、毒が、ジワジワと染み出し流れ出してくる。幾重にも交錯していく展開に、目が離せない。老成した果てにある希望は、世界へとつながっていくのだ。




 難民と諍い、その内のひとりをつるし上げて叩きのめす。その時、老人が打ちひしがれた難民に向かって「何処へ向かっていくのだ!」と叫び上げる。自戒の念とも、世界を憂うるともとれる、その言葉はズシリと重い。不寛容さがこの今の現実を生み出してしまったのではないのか、そして、それを生み出してしまったのは誰なのか? この糾弾の先には、一体、誰がいるのだ! それは、個々人が考えていくべき命題なのであろう。



 ラスト、道化のようにチュチュをまとった白塗りをした男性2人が、返り血を浴び、瀕死の白鳥のようにフラフラとたゆたう姿が圧巻である。誰もが、きっと、多かれ少なかれ、血を流して生きてきたのだ。「船上」は、「戦場」とも、言い替えることが出来るかもしれない。思い悩みながらも、生き続けるしかないのだ。荒廃を救うも放り出すも、自分次第。戦いながらも、どう生きるべきかを模索し続けていくのだ。きっと、多分、死ぬまで、この巡礼の旅は、終わらないのだ。