劇評97 

反体制にいる虐げられる異形の人々を讃える人間賛歌。



「道元の冒険」




2008年7月13日(日)晴れ
シアターコクーン 午後2時開演

作:井上ひさし
演出:蜷川幸雄
音楽:伊藤ヨタロウ
出演:阿部寛、栗山千明、北村有起哉、
 横山めぐみ、高橋洋、大石継太、
 片岡サチ、池谷のぶえ、茂手木桜子、
 手塚秀彰、神保共子、木場勝己
場 : 長大な戯曲で、チラシの裏面にも小さくではあるが「上演時間は四時間を予定しております」と書いてあったが、結局は15分の休憩を入れて3時間20分程度の長さであった。どうやら井上ひさし自身が戯曲を相当刈り込み加筆もしたらしい。会場に入るとコクーンの緞帳が下りている。
人 : 満席。女性の比率が高いと同時に、年齢層も全体的に高めである。比較的チケットが購入し易い演目であったと思うが、そうすると、チケットを必死に取らないと観れない演目と違い、芝居を楽しみたい高齢の方々にも機会があるのかなあ、などとも思いを馳せる。


 40年弱前に書かれた本戯曲は、この後の時代に起こる出来事を髣髴とさせるかのような予感に満ち、全く古びることなくマグマの様なパワーとシニカルな怒りが内包されていて、触れると火の点くような熱さで観る者の気持ちを焦がしていく。そんなパッションに笑いを織り交ぜながら、喜劇として仕上げ体衆化させていく手腕は、さすが当代随一の作家であると舌を巻く。




  今回の公演に際し作家は大分修正して、上演時間は大分短くなったようだ。最初に書かれた戯曲は、その上演時間は5時間とも6時間とも言われていたが、それだけの膨大な物語を紡ぐことが出来るその熱情と才能には計り知れないものがあるなと感じ入る。




 物語はタイトルにあるように、曹洞宗の開祖・道元の話である。しかし、単なる伝記が展開される訳ではない。道元によって開かれた宝林寺で、開山7周年記念の祭典が開かれようとしていたその時が舞台。丁度、「道元禅師半世紀」が弟子たちによって演じられようとしている。また、この時期、道元は頻繁に夢を見て、婦女暴行容疑で拘留中の現代に生きる男と意識がシンクロしていく。現代と寛永元年という時、さらに道元の修行時代を過去から遡るという3つの次元が混然としながら展開していく。しかも、全編、歌に満ちている。主に10人の役者が50もの役を早代わりで演じながら、歌い、踊る。その必死のパワーがこの物語にスリリングな要素を付け加えていく。



 現代の拘留中の男のパートであるが、場面数が多くないということもあってか、ラストの顛末に繋がるステップとしては、その存在感が少し希薄な気がした。寛永時代の圧倒的なパワーと対比させるかのような、全く趣きを異にする静謐さとでも言おうか、決定的に違う空気感を作り出して欲しかった。照明にも工夫が欲しかった。そうすることで、過去の場面も更にクッキリと際立ってくると思う。





 「道元禅師半世紀」を演じる弟子たちを、阿部寛演じる道元は、座禅をしてジッと見つめている。合間に、現代のシーンが鋏み込まれはするが、1時間位は、ほぼ座禅をしたままである。かつての修行時代の姿を見つめることで、当時の思いを彷彿とさせていくという意図なのかもしれないが、固定された身体からは立ち上る様々思いが去来しているのがあまり分からず、道元が唯の傍観者に見えてしまい、これは惜しい気がした。そこで演じられている「半世紀」は面白いのではあるが。




  伊藤ヨタロウの音楽がイイ。メロディ・メーカーの宇崎竜童とはまた違ったテイストで、カノン、ブルース、民族音楽、オペレッタ調など、様々なジャンルが入り交じる楽曲を、本家本元の音に変に似せることなく、エッセンスを掴み取る。




  阿部寛はコミカルなアクセントも備え、その偉丈夫な体躯は主役としての存在感があった。北村有起哉が縦横無尽に駆け回り台詞の合間の空気感を埋めていく。木場勝己の圧倒的な安定感、神保共子の安心感が物語を支える。栗山千明はキレはイイが、やはり封印された黒髪は見てみたかったな。横山めぐみは独特の清楚な色香を放ち存在感がある。
 



  ラストのシーンで過去と現在がシンクロする。正気なのは強い権力を持った者で、反体制の者たちはいつの世も取り締まられる立場にあるのか、と言う疑問がアタマをももたげる。格子の外と内との境界線は、きっと薄い皮膜でしか区切られていないのだから。