劇評143 

傑作漫画の世界を、説得力を持ってリアルに舞台に変換することに成功した。


「ガラスの仮面 −二人のヘレン−」
 

2010年8月15日(日)晴れ
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
17時30分開演

原作:美内すずえ  脚本:青木豪
演出:蜷川幸雄   音楽:寺嶋民哉
出演:大和田美帆、奥村佳恵、細田よしひこ、
   新納慎也、原康義、月川悠貴、岡田正、
   黒木マリナ、立石凉子、香寿たつき、夏木マリ

場 :  会場に入ると、彩の国さいたま芸術劇場大ホールの奥行きある舞台が、何の装置も置かれていない素舞台のままの状態で目の前に広がっている。これは2年前の第1回公演の時と同様である。また、会場内では2つのグループのバックステージツアーも敢行されている。舞台と客席の垣根が無くなっていくような気がします。役者たちも、会場通路から現れ舞台上に上がり楽屋入りしていくというスタイルで、皆ぞれぞれ自由にやっているのかと思いきや、時折演出的な要素も加味されていますね。
人 :  ほぼ満席だが、若干空席もある。年齢層は概して高めだが、母に小学生の娘という親子連れの姿も目立つ。娘さんの方は開演前から、舞台で行われている様子を夢中になって見つめていたりします。何だか微笑ましい光景です。

 舞台は自然な流れでスタートする。舞台上で自主練をしていた役者たち数人がダンスのレッスンをし始めると、その輪が徐々に広がっていき、場は役者全員が一斉にダンスを踊るシーンへと一気に変転する。日常から非日常へと地続きで軽々と飛躍するこの幕開きは、前回と同様の演出ではあるが、観る者をグイっと舞台へと引き込む大きな牽引力となっていく。

 このように舞台が作られていく背景にある役者たちの準備や努力の過程、プライベートでの葛藤や挫折、そして、本番舞台での迫真の演技という、いくつかの側面を交互に織り交ぜながら物語は展開していく。そして今回は、サブタイトルにもあるように、宿敵のライバル、北島マヤと姫川亜弓が、「奇跡の人」のヘレン・ケラー役をオーディションで競い合っていく姿が大きな見所としてフューチャーされるという構成になっている。

 本公演は彩の国ファミリーシアターとうたわれているが、決して子ども向けではなく、大人の鑑賞にも堪えうる出来映えになっている。難解な表現を一切排除した、誰が観ても理解できる平易な表現手段を取りながらも、その表現が人間の本質を突くという鋭い切っ先をもっているため、深い人間洞察力が感じられるようになっている。膨大な量の原作の中から、そのエッセンスを上手く汲み取りながらも、その原作世界に深く斬り込み整理しまとめ直した青木豪の脚本の構成力は見事であると思う。

 また、音楽劇ということで、ミュージカル仕立てになっているのだが、俳優陣の歌もなかなか聞きどころとなっており、寺嶋民哉の音楽も役者それぞれの役どころを引き立てる繊細な旋律を紡ぎ上げ、音楽の視点からキャラクターをより深く豊かに広げることに成功している。本作のためのオリジナルの音楽なので、役柄や俳優の資質に合わせた音楽作りが成されたのであろうが、音楽がしっくりと役者に馴染んでいて、何よりも無理めな感じがしないところが、安心して観ることができる要因にもなっている。

 音楽劇とはいえダンスも重要なファクターとなっているのだが、キャスティングがやはり役者を中心に構成されているためか、ダンスを専門に極めた者が持つ技術の域に達していないということがどうしても気に掛かってしまう。もちろん役者が踊るという独自の味わいは醸し出すことが出来ていると思うし、不可能なハードルを用意しない振付にもなっているため、違和感なく観ることは出来る。また、時には踊れないことを、笑いへとスライドさせる手法を取ることもあり、これはこれで面白いのだが、他のパートが上手く機能しているがゆえに、惜しいというか、少々浮き上がって見えるシーンがあることは否めないという結果となっていると思う。

 俳優陣は前回からの続投組が殆どであるが、やはり夏木マリの月影千草の存在感が圧倒的だ。見た目も原作通りの出で立ちでインパクトは絶大なものがあるのだが、物語の主軸に立つこのカリカチュアライズされたキャラクターがしっかりとこの実力派俳優によって演じられることにより、漫画の世界を劇化する際のキートーンが決定付けられることになる。漫画的なるものを、説得力を持ってリアルに変換することが出来ているということだ。

 故に、大和田美帆や奥村佳恵が演じる天才肌の新進女優という役どころも、天才的なひらめきを感じるか感じないかという次元においてではなく、漫画とこのリアルな舞台との狭間のポジションに役者たちを置いて観ることができるため、それぞれの役柄はひとつの設定なのだと捉えることが出来る仕掛けになっているのだ。巧みな演出であると思う。

 フライングや装置の素早い転換など、多くの仕掛けが施された演出は舞台を華やかに彩ることにもなるが、シンプルに役者をじっくりと見せるシーンも挟み入れるなど、緩急自在な蜷川演出は、最後まで観客を飽きさせることがない。まだ見ぬ「紅天女」が観られるのはいつのことになるのであろうか。次作も続けて公演できることになるよう期待したいと思う。